2020年12月26日土曜日

コロナ渦の一年~

良いこと良く無ない事、兎に角色々と大変な一年でした。 これから時代はどのように変化していくのか、、、、、民主主義の上で成り立っている自由。それが本当の自由でないことは誰もが気付いていることだろう。だからといって戦争下にあった不自由と比べればどれほど自由かしれない。自分がしたくもないことをやらされる、大半の労働はそのようで、生活のためと。労働しなくても生活できる方々も沢山いる。富裕層、あるいは労働出来ない一部の人達、年金族、などなど、、、、。

今度のコロナ渦で今まで見えていなかったことが数多く表に現れてきたように感じる。それは先の未来に繋がっていくであろう「何か」をどのように個人個人が考察するか、そしてどのような形態の社会になっていくのかを予想、想像せざるを得ないけれども、まず自分の足元をしっかり見つめ直そうと思います。

2020年12月13日日曜日

描ける!

今、描ける!ということ、この幸せを実感します。 

十年ちょっと、水墨をやりだして、ようやく描けるようになったかなって思ってます。
今は、ミロのビーナスに挑んでますが、、、、その古代の美術館に収まっているビーナスと時間との関係性から何かを考察しながらの作業です。

今回、投稿するのはその前に描いていた「みみずく」の墨水画です。花鳥園のミミズク、何か憂鬱そうでした、、、、。




墨水画

麻紙

由三蔵




2020年12月3日木曜日

疑問

 解からない事、不思議な事、感覚として経験したいこと、、、、。そういったことに対して自分が今、何ができるのだろうか?



おおよそ一昔前のコラージュ作品の中から気に入ったのを写真に撮り
パソコンんでリメイクし水墨のモチーフとしてつくってみた。
今の自分が欲しものが少し見えてきた。





2020年11月24日火曜日

Prolegomena

 ひさしぶりの更新になります。
プロレゴメナ(序論)カントの哲学書です。最近になって読み始めました。
先日のブログで墨水画第三期などといってましたが、通俗性を拒否することはなかなか困難なことであることを実感しています。もういちど「透けて見えるようにやる・・」というプルーストの言葉に立ち返ってモチーフを考察しなければと感じてます。で、兎に角、描かずにはいられずれ試作をやっています。

Ma-U2
墨水画 麻紙

御河童
墨水画 新麻紙


この二点は約20㎝くらいの小さな作品です。Ma-U2は昨年20号に描いたモデルと同じモチーフで新たに描きました。現在、第三期の序論として「小さなダンサー」の習作を描いています。もうそろそろ終了というところです。

プロレゴメナ

墨水画 6号

麻紙

由三蔵







2020年10月21日水曜日

墨水画・第三期はじまる

完成予想図を描くというのと絵画を描くというのとは水と油のほどにあるだろう。 しかし、そこにある意識とはどちらにしろ「ある/予想図」だと思った。そして大切なのはモノ、ではなくハタラキにあると。物語ではなく、その中にある言葉(感覚)のハタラキ(身体と世界)・・・リアリティーそれはやはり現象学的問題のようだ。



モチーフ
ある現象学的予想図





2020年10月16日金曜日

アート・ファン

 2016年に水墨で描いたフェルメールの「レースを編む女」の模写をある方が気に入られ先日納品しました。昨日、そのお宅から連絡があり額に入れたので観に来てほしいと、、、。安い中古の色紙額に入れてお渡ししたのですが、見に行ってきました。素敵な額装で、なんだか絵が喜んでいるみたいにみえました。

その方の邸宅は広いお庭に茶室まであり優れた和風建築で、絵画のほかに陶芸、屏風、などなどまるで小さな美術館のようなお宅です。そして、わたしの作品を五点ほどお貸しし展示させていただきました。



フェルメールの「レースを編む女」模写

水墨

原画とほぼ同寸で描いてあります。



2020年10月12日月曜日

モーリス・メルロ=ポンティ

 1908年生まれ。フランスの哲学者。

わたしはセザンヌに興味があり何冊かの書物を読んでいる時々に出てきた哲学者の名前であって著書自体を読むのは初めてでした。その「メルロ=ポンティ コレクション」を読んでいるのですが、その項目のなかでー絡み合いーキアムス(見えるものと見えないもの)から、というのがプルースト批判だったのです。プルーストの芸術の方法に「透けて見えるようにやる・・」という言葉があるのですが、その言葉を壁に貼ってほぼ毎日のように思索してきました。その事実を哲学的に語っている・・・何か今までにない感覚に鳥肌が立つような思いで何度か読んでいるのですが、経験が伴わないためか、まだまだ理解に苦しんでいます。しかし、おそらく近いうちにその兆しが、墨水画を描くことで見えてくるのではないかと信じています。身体(からだ)で観ること、その対象から見られているということ、、、とはどういうことか?なのです。


2020年10月7日水曜日

墨水画・第三期

 新しいチーフに取り組み始めました。水墨で画を描くようになってまだ十年ちょっとですが技術的なことも含め日々新たな動機が生まれてきます。大きく分けると現在探求してるのは第三期というところでしょうか。新しさといってもファッションのようなものではなく、むしろ今あるもの、知り尽くしたものと思っているようなものの中に、、、偶然や奇妙や失われた時間とがあって、そこから立ち現れてくる「新しさ」のようです。さて今回のブログではその第一期に当たる作品の一部をお見せする次第です。








このころは正直、墨とか和紙とかが見えてこない
ただただ、水墨でデッサンしていたような気もしますが
それなりに表現としては面白いと、今見ると感じています。
このころ描いた風景画はほとんど手元にはなく
値がが安かったせいか買われていきました。
ありがたいことで、それによってか、あってか、
水墨を描く大きな励みになりました。



2020年9月30日水曜日

美術評論家?

 美術の好きな方の中に、世の美術評論家の文章及び発言をそのまま鵜呑みにして語る人がいます。はあ、はあ、もっともなことを言ってるな~って聞いていると思うのですが、当の本人がその美術作品を実際どのように受けてめているのかは、ほとんど分からないことが多いですね。わたしが読んでいて最も面白くない美術評論は沢山の知らないアーチストや海外の著名な知らない批評家の名前を沢山出してきて、何々派だの主義などポスト何とかだのと、自分の言葉でしゃべっていない方々の批評です。わたしが、ブログで書いている文章などもそうですが、わたしなどは文章家ではないので許されるでしょう(笑)でも、水墨に関しては自分の言葉で話してるつもりでいます。

これからの時代はアートファンの時代になってくるような気配がしていますが、どうでしょうか?



この写真は、以前に水墨で模写したフェルメールの編み物をする女の図版です。1970年に出版された画集(本棚を整理していたら出てきた)からですが、モノクロ写真でした。以前模写した図版(2010年?)との差異があることに気づき、もういちど水墨で描こうと思っていますが、いつになるか、、、、。



2020年9月26日土曜日

三人展無事終了

 六日間があっという間に過ぎていきました。約300人ほどのご来場者がありました、初めて写真のようなリアルな水墨を見るという方が多く、墨水画の解説に喉が渇くほど話しました。普段は無口なのですがね、一から説明するのは大変でした(笑)兎に角、ありがとうございました。

もう一つの収穫は沼津市で運営している小さな美術館「モン・ミュゼ」2Fにて個展をさせていただけることになりました。初日にそこの館長さんがいらして、その日のうちに決まった次第です。まだ10か月ほど先なので新しいモチーフの墨水画の制作ができそうです。

水仙
墨水画

以前モデルをしてくれた女性が観に来てくれて
この作品が一番好きだといっていました。





2020年9月14日月曜日

リアリティ

 明後日、作品の搬入、約20点をセレクトし準備が整いました。

いよいよ初めての本格ギャラリーでの三人展が始まります。

最近考えているのは真の「リアリティ」です。今まで水墨でリアリズム(写実絵画)を模索してきましたが、そこに足りない何かが何時もあります。物質と精神の問題で、何故見えないものが見える人がいるのか?例えば、幽霊とか、幽体離脱とか、スピリチュアルな世界です。リアルといっても様々な解釈があると思うのですが、現実化された事象内容といいますか、今まで自分が非現実だと考えていた事物が実体あるものとして考えられるようになってきた、つまり「リアリティ」を帯びてきたというとことです。
美しいと感覚できること自体が「なぜなのか?なぜ人は感動したりするのか?・・・」非現実なのでした。が、今まで本を読んだり映画を観たり、過去の経験などを含め探求してきて現在に至り、科学的現実としてそれ(リアリティ)が立ち現れてきたのです。
わたしなどは言葉で説明できませんが、シュレーディンガーの「精神と物質」、ラズロの「生ける宇宙」を読んでいただけるといいのですが、でも読む方によって理解の仕方が違うので何とも言えませんが、わたしににとって新たな一歩なのでした。

兎に角、ギャラリー「ほさか」の三人展をぜひ見に来てください。


2020年8月20日木曜日

美の値段

 「・・・現在日本には、絵を描き、展覧会や個展などで発表している人は、およそ十万人はいるだろう、と私は見ている。『美術年鑑』に名前の載っている画家はそのうち三万人、マーケットで多少とも値段がつき画商が扱っている画家はさらにその中の三百人くらい、そして本当に愛好家の間で人気があり流通しているのは五十人、と見てくると、十万人のうち絵を描く本業だけで食べていけるのはせいぜい100人いるかいないか、だろうと思われる・・・」この文章は1999年に画家、今は亡き池田満寿夫氏の著書「美の値段」から抜粋したものだが、約20年前ということで社会的状況はかなり変化しているものの、発表の仕方など数字的なものは別にしてまんざら今と大して変わらないのではなかろうかと思います。

趣味で単に個人的な楽しみで絵を描いているというだけなら、美の価値など特に考える事もないでしょうが、作品を発表したり、展覧会やコンクールに応募したりする人には考えなければならない問題でしょう。美というテーマはプラトン・ソクラテスの時代から現代まで問われてきたものゆえ、そう簡単に真の答えの出せるようなモノではないにしても、というかだから探求しなければならない事のようです。

兎に角「美術品は社会的価値である」ということは確かであると思います。


2020年8月3日月曜日

ベルクソン

この方の哲学は何といういいますか、かなり難解で、読むことがようやくできるようになったかと。おもな著作の翻訳本は岩波文庫なのですが、兎に角字が小さいので、、、現在「道徳と宗教の二源泉」を読み始めました。
五年前くらいに「エラン・ビタール」という概念に触れたことがベルクソンの始まりでしたが、やはり、解ったような気になっていただけかもしれません。

どうやら、わたしには道元、カント、ベルクソン、、、、が死ぬまで読む哲学の著作にしぼられそうです。もちろん日本の批評家(哲学者)の柄谷行人や福田恒存、大森壮蔵、他何人かはくわえなければならないでしょう。自分に分からない事を理解するための手助けになってくれる本があるということはありがたいことで、また、解らない事(不思議)とは何かを気付かせてくれるというパラドックスでもあり、それが新しきものへ導いてくるような気がします。

水墨で描くということは、その妙を味わうことでもあるように思っています。

優れた人、あるいは作品というのは分類に属さない。ということを実感します。

2020年7月28日火曜日

美術を哲学する

どのように言葉にすればいいのかわからなかったので、このようなタイトルにしました。
元々、日本語になかった哲学という言葉ですが、最近では芸術すらアートという日本語にしていますから、そう深く考える必要もないと、、、、でも、自分の感覚で腑に落ちない何かがあるからでしょう。
近代絵画あたりから現代美術まで、美しくないモノ(共通感覚による)まで美術のカテゴリーの中に入ってきましたが、皆様はそういうことをどのように思っているのだろう?
そのような疑問がなかなかぬぐい切れません。
美の様々な定義みたいなものも歴史の書物の中でも言われていますが、それはあくまでも概念であり、自分の経験として現れなければ何の価値もないのと同じです。

まあ、そんなわけで解らないまま、つまり美術を哲学しながら墨水画を描いているわけですが、、、九月の十七日から一週間、三人展を開催します。

案内状のデザインを手がけましたのでアップします。




2020  9/17ー22
場所・ギャラリーほさか(沼津)



2020年7月26日日曜日

生活の柄

この言葉は山之口獏という詩人の中にある詩のタイトルです。
今はもう亡き高田渡というフォークシンガーも歌っていました。
現在の自分はこの言葉の意味をもう一度考えているのです、、、、。

わたしの生活の柄あるとすればどのような柄なのか?
生活の柄とは、生き方であるとすれば、わたしの柄はポロックの絵のようなペンキ屋さんの汚れた作業着のようなものではないかと思うのです。これはかなり自分を美化しているナルシストの考え方で、そこに自分を陥れるフェミニストでもあり、さらにそれは主観的エゴイストであるのでしょう。
そんな自分が墨水画を描いているということだけが、生活の柄を変化させる、あるいは他者を受けいるることの兆しが、生活の柄を塗り替える、または重ね描きすることで新しいい柄が立ち現れてくるような気がしています。

両親をはじめ、友人、知人など何人かの人がこの世を去っていきました。
その人たちの生活の柄を感じます。

優れて美しいものには、どういうわけか悲しみ憂いのようなものが付いてきます。

お盆。ですね!!供養とはそうゆうものではないでしょうか。。。。

2020年7月22日水曜日

恋という狂気

また、読んでます。
プラトンの「パイドロス」

恋というのは経験でしかわからない!

六十歳の恋。。と小学生、あるいは思春期、成人してからと、、。

自分の経験の中でしか、映画や小説、ドラマといった物語を観ることしかできない、、とすれば、その感動も自分の中だけのことだろうかという疑問が生まれます。でもそれは違うのではなかろうか、、と。

他者、あるいは絶対他者が、自らの経験の中に入ってくる。そういう自分がいるということになると言ったほうが正しい気もします。

大切なのは、想起(思い出すこと)。そいう感覚が薄れてきている。そうではいけないと。記憶することを機械(PC)に依存することは自分の時間を増やすように見えるけれど、それは全く逆のことだと。
なぜかわからないけれそ、そんな気がしている近頃です。

2020年7月12日日曜日

2020-三人展

9月の17日から六日間、沼津の本格ギャラリー「ほさか」で三人展を予定しています。
昨日はその下見と、打ち合わせをしてきました。本格的な設備のギャラリーで展示会をやるのは初めてなので、三人展とはいえワクワクしています。詳しくはまた色々決まってからご案内したいと思っています。結構広いので、前回の個展と同じくらいの数の作品が展示できそうです。ここ5~6年の間に描いたものと最新作の墨水画と選りすぐって充実した展覧会にしたいです。

墨水画 10号 由三蔵

今回の個展でも人気の高かった作品です。



2020年7月11日土曜日

パイドロス(プラトン)

昨日から今日は丸一日、プラトンの「パイドロス」(岩波文庫)が読めました。

読んだと、言わずに読めましたというのが正しい言葉だと思います。
つまり、面白いと思っていなかった本を、再読して、今の自分の問題に照応できたという感じがあったからです。
恋(エロース)と弁論術をテーマにした、ソクラテスとパイドロスの対話編なのですが、今自分が問題視しているのが共感覚ということで、どうして人間にはそういったものが存在しているのか、、、、、。もちろん答えなど神の領域にあるとは思うのですが、それでも画を描いて発表し他者に観てもらうことを自分が何故やっているのか?そういった不安から、信じられる、頼れるもの、指し示す何かを知覚したいということだと思っています。
古代から現代に至って、さらに未来へも考察されていくであろう「エロース」、命とも恋とも欲望とも、更には生命の根源とも、そして普遍的ー何か。

わたしにはプラトン(ソクラテス)がいっているのは、それは純粋なところの「美」そのものだと言っているように思いました。そしてそれは自分の考察していた価値基準でしかないのだとも、、、、。
でも、それでいいと思っています。どうしてかといいますと、一歩また明日へ進めた気がしているからです。

2020年7月10日金曜日

技術と狂気

プラトン、アリストテレスの時代から、すでに書物にあったことのようです。

「技巧だけで立派な詩人になれるものと信じてムッサの神々の授ける狂気にあずかることなしに、詩作の門に至るならば、その人は、自分が不完全な詩人に終わるばかりでなく、正気のなせる彼の詩も、狂気の人々の詩の前には光を失って消えてしまうのだ」と、、、、。

紀元前のプラトン「パイドロス」の解説からですが、現代でも通用するような芸術、アートの世界ですね。
わたしの墨水画もある意味では技術(技巧とは違うと意識してますが)そのもので情念などをなるべく持ち込まないようにしているのですが、狂気の絵画の前で光を失うのでしょうか?
やはり、時代、、、つまり時間と場所、歴史、現代の経験としての今の事実を信じたいと思います。もちろん、哲学的云々は別にして、、、、狂気とは何か、技術とは何か、創造とは何か、と言葉の捉え方でも異なります。そして記憶、想起、知覚する感覚を考察する必要はあると思っています。

とにかく、日常の生活に戻れば、哲学自体がどうなるのか、、、一番問題でしょう。

そうして、現代の哲学も意識しているようですね。

2020年7月9日木曜日

共通感覚論とは

人類の歴史の記憶にある共通感覚とは?
その確かな説明はいまだにでてこない。
それなしでは社会も世界もできないはずなのに、、それは、何故だろうか。

今回の墨水画展2において初めて体験したことがあります。
二日目にご来場してくれた女性なのですが、わたしの知人が連れきました初めてお会いする方でした。
まるで何の物語性も情緒もないようなリアルな一点の墨水画を観ていて、、涙を流されました。その情景を視てわたしは驚愕してしまいました。もちろん言葉なんかでてきませんでした。

それから、五日目。以前アルバイト先の社員さんが来てくれました。
その方も女性ですが、別の墨水画、幼児の顔をアップした絵ですが、それをジーと観ていて、ハンカチを取り出して涙を拭き始めたのです。

共通感覚。それはおそらく記憶と時間と場所からなる、何者かでしょう、、、、。

こんなに素晴らしい墨水画を描くことへの励ましは、絵が売れること以上に、いやそんな事を超えたかけがえのないことだろうと思っています。



2020年6月28日日曜日

創造ということ

それはつくることではない

なること

なること、立ち現れること

それが表現なのかもしれない

それは自分のチカラではない

他者のチカラ

過去・現在・未来を

一本の平行な直線ではなく、垂直に見る

わたしがどこにいて

あなたがどこにいるのか

そして

創造者に出会うこと

あなたに初めて会えたようだ


この度の個展で、その創造者に出会えたような感官の喜びに酔えた。
「墨水画展1・2」はまだ個展の前奏曲のようなものだと感じている。

2020年6月20日土曜日

表現とはいかに、、。

「墨水画展2」の明日は搬入と展示です。FM&ローカルTVの生放送の出演もなんとかなりました。パーソナリティの方には、終わってから「お話がお上手ですね!」とお世辞を言われいい気分でした。(じつは直前まで緊張で心臓がバクバクしてました)
、、、、、できれば、明日の搬入は晴れてほしいです!!

昨日はアトリエで作品をまとめていて、ひと段落し珈琲を飲みながら手にした写真雑誌が28年前の「デジャブ」で付箋が挟まっていて開いてみると柄谷行人のエセーでした。
四ページほどの写真家についてのものでしたが、表現とは何か?といった内容で、鉛筆でアンダーラインがいくつも引かれていました。もちろん引いたのは自分なのですが忘れているものです。
兎に角、現在の自分を形成している一部であることはたしかでしたが、読み返すと「表現」するということを改めて考えさせられた。
あらゆるジャンルのクリエーターが陥っている誤り、自分自身を表現するってことを貫徹できているのかといこと。じつはテクノロジーだけではないかと、その道具、あるいは身体を使っているのは自分だとしてもである。そもそも、言葉自体がそうであると、本人が思って言った言葉すら正確に他者に届かない。なのに、人はたやすく「表現」という言葉を使う、、、、と。だからといってその柄谷行人のエセーに答えは無く「日本回帰」などというものを否定しているように思われた。

今回の個展は、どうやら表現ということを考えつつ10日間やることになりそうだ。


この写真はだいぶまえにモチーフにしようと撮影したものです。
現在、水墨で描いている途中ですが
「表現」とはいかに!と問いかけてきそうです。




2020年6月13日土曜日

ローカルFM

COAST-FM(FM‐ぬまづ)というFM放送に個展のPRで出演することになりました。
生放送で十五分くらいだそうです。
出演日:6月17日(水)pm13:08~です。

質問項目というのがメールで送られてきました。

1、墨水画とはどのような絵画?水墨画と違うの?
2、由さんが描かれるようになったのはいつごろ?きっかけは?
3、絵の題材、構図を決めるポイントは?
4、今回の展示会についての紹介。(テーマ、何点展示されるのか?など)
5、今回の作品の見どころは?
6、改めて、「墨水画展2」のPRを一言お願いします!

といった内容です。

今回、二度目の個展を開催する「カフェ&ギャラリー 萌」のオーナーの企みによるもので、、OKしたしだいです。

兎に角、個展まで、あと一週間になりました。
古民家のギャラリー・ハウスなのでコロナ渦の三密の心配も多少は緩和されると思いますので、ぜひ観に来ていただきたいです。ご来場をお待ちしております。

2020年6月11日木曜日

明暗だけの絵画空間

色のない絵画的世界とでもいえばいいのか、、、。
自分の場合は、特にモノトーンが特別好きというわけではなく、また絵画表現というのもでもなく、いまのところ言葉で自分のやっていることを言い表すことが難しくてできません。
鉛筆で超リアル、写真のような絵を描かれる方はさぞ面倒な忍耐強いことをされている。
もちろん、油絵、パステル、色鉛筆なども、写真のように?描くというのは技術力にものいわせなければできないでしょう。
なら、何故、水墨でリアルな表現をする方が少ないのか、、、、。と、ついつい思ってしまいます。まあ、それだけの魅力を感じないと言えばそれまでですが、どうしてでしょうかね。特に中国や日本人には鉛筆などより古くから文化の中にあって刷り込まれているはずの墨です。おそらくDNAには鉛筆より色濃く残っているはずだと、、、勝手な恣意的思考ですが(笑)

今回、個展のPRでローカルFM放送に出演することになり、その下準備で一般的な質問内容を前もって送ってきてくれたのですが、どのように答えたらいいのか考えています。

2020年6月10日水曜日

時は流れず

時とはなんだろうか?

昨年の初個展から、、、自分では次の個展のことなど考えてもいなかった。
あれから十か月、まさかの二回目の個展をやることになった。
時間は何をしてたのか、どのような働きをしていたのか、、、、、簡単なことだが、今度来た個展の話を自分が断れれば何も起こらない。でも、それはきっと違っていていて、たとえ断っても時は、今そこにあることには変わらないだろう。
いつも、「時」を考えるときに、プルーストと大森荘蔵の本と道元の正法眼蔵があらわれる。
難しことはともかくとして、今この時がいかに充実しているか。それが確かなら、個展という作品を発表する機会を、ひとつの時のハタラキとして受け止めることは間違いではないと思う。



昨年の初個展に使用した墨水画です。
原画は、ギャラリーのオーナーに差し上げました。

なんだか今見ると、いい水墨のように感じます。


2020年5月31日日曜日

新たなバランス

最近のニュースだが、ネットでの誹謗中傷で自殺者が、、、、。

おそらく、今までにも直接的ではないにしてもあっただろうと思う事件だと思った。
最近、法律で対応しきれないような問題が起こっている。

わたしのやっているFacebookでも、批判に対するやり取りから論争に及んでいるのをみかけるが、まあ絵画とか芸術というのは批判があって当たり前で、批判に目くじら立てるのも、わからなくはないけれど、おおよそ芸術家などは心の中では自分が一番と思っている、あるいは正しい方法だという方々が多いのではないかと、、、、、。(趣味とプロ意識との差異にも問題はあるが)
Facebookだって一つのメディアであるから「いいね」ばかりであるはずもなく、「いいね」を増やしたいがために友達を沢山つくるというひともいるかもしれないが、それは誤診だろう。

「あれはダメ、これはダメ、、、」という規則、社会的なルールが生活者を規制してくる。そしてそれに、反抗する者も決してなくならない。
時代は、まさに新たなバランスを求めて、新しい運動が起こってくるだろう。


2020年5月27日水曜日

解からない事が多すぎる

、、、、、、、でも分かったような気になっている。

とにかく、便利な時代かもしれない。必要な情報も必要もない情報も簡単に入ってくるけれど、果たしてそれが正しい情報かといえば、やはり疑問であろう。
そういう、時代にあることは間違いないと思う。

でも、なかには。というか世界の多くの、どれほどかはわからないけれど、情報が届かない、あるいは受け入れないという人間もいるということ。自分は少なくともその一人とは言わないまでも、TVはほとんど見ない人である。
フェイスブックとかインスタレーションとかツイッターとか、そういうのを何と呼ぶのかも知らないけれど、触れるくらいのことはしている。だが、やっぱり解からないことが多すぎる。





墨水

2020年5月24日日曜日

墨水画展2

先日連絡を受け急に二回目の個展をやることになりました!!

コロナ緊急事態の影響によりギャラリーで展示会を予定されていた作家さんがキャンセルしてきたため、わたくしに依頼の話が回ってきたという背景です。
幸い、五月に予定していた三人展に向けての新作が十点あまりあったので、このような時期ですが発表しようと思いました。
簡易的なデザインの案内状ですがつくりましたので掲載いたします!

場所:静岡県沼津市西沢田700番地 ギャラリーハウス Kizasu



2020年4月30日木曜日

描きたいと思ったもの

たとえそれが何であろうと、何の動機であろうと、また何かの
真似であっても、それを描きたいという思いには必ず美の真髄が隠れていると思う。
「見えざるもののなかで最も見えざるもの」それは生き続ける根源的なハタラキだと思う。
描くという行為はその探究にほかならない。
透明な感覚をもって真写する。
絵画的虚構を捨てそのものと自然に交わる。
その時のハタラキそのものが水墨の景色となる。


五月二十一日からの展示会が中止になりました。
本物を観て頂きたかったのですが、このブログで写真に撮った画像を発表します。
今回掲載するのは、今年になって描いた墨水画の一部です。

墨水画 六号
麻紙


墨水画 17×17
麻紙

2020年4月8日水曜日

Be Here Now 2

唯今

水墨は 禅(ZEN)とは切り離せないものがあります。

この度掲載した水の景色(月光)はサムホール・サイズながら手間がかかりました。


無の中に有があるとすれば、有の中に無があるということ。これも言葉の概念でしかないかもしれませんが、科学の現在ではブラックホールの中に宇宙が有るというアイデアを想像しています。
しかし、われわれの日常の確かさは、今宵の月の美しさを愛でるところにあると思います。



墨水画

SM 麻紙

水の景色・月光


由三蔵




BE HERE NOW

それは

現在でもなく過去でもなく未来でもない

時間も

意識も

こころも

実在しない


ただ、生きていて

今があるだけ


今宵はスーパームーン

世界中に月の光が、、、、、、。

2020年4月3日金曜日

伊豆天城・浄蓮の滝

五年前に描いた七滝の水墨いらいでしょうか。

水の景色はわたしの墨水画のテーマのひとつです。
感覚的にいえば、これほど自然に同化できるものが人類にとってあるのだろうかというものですが、現代哲学はさておいて紀元前の哲学の中に「水」を真理の中心に考えていたタレスという哲学者がいたようです。(間違っていたらすみません)
また、わたしは映画エイリアン・シリーズが好きでずっと観ていますが、完全生物のエイリアンと生物としてウイルスを考えると、どうかするとオバーラップしてしまうのですが。
純粋な水を汚してきた人類の歴史だとしても、おそらく水は絶えず新たに生物としての人間にも命をつなげてくれるだろうと信じています。
なぜか、そんなことは自分にはわかりませんが、美しいから、、、、、、。そのような気がするだけです。



墨水画

6号

麻紙


由三蔵





2020年3月25日水曜日

たった今

世界中がコロナ感染の中にある、たった今。の日本。

宗教、哲学、芸術・・・・・。

その分野でプロといわれている方々、なにか一言いえないものでしょうか?(情報メディアです)
で、は無理でしょうね。


さて、今にこそ、それぞれ個人の大切がものが何か。

それを、真剣に考察する。

時ではないでしょうか。

それは、科学や政治ではなく、宗教、哲学、芸術だと思うのですが、、、、。


目に見えないものの恐ろしさ、その反対側にある美しさ、見えないものがいかに重要だということを知らされます。




2020年3月19日木曜日

写実墨水画

よく絵に心が現れるなどといいますが、その心とは全く実体のない、その絵を観る人が知覚経験した妄想のようなものではなかろうかと思うのです。(それでもいいのですが)
しかし心のこもった絵がどのようなものなのか自分には理解し難い問題なのです。
わたしの墨水画はそのようなわけもわからない心(エゴころ)とかをできるだけ剥ぎ取っていったところからの「立ち現れ」を墨水画の中に見ていただきたいと願っています。

兎に角、わたしには技術(テクニック)が頼りなのです。
三十号、二十号の作品を描いてから(しばらく腱鞘炎になりシップしてましたが)墨水画の技術が進歩したように感じます。まずは、描くスピードが速くなったこと、墨色の黒の限界が読めてきたことなどがいえます。
下記の色紙に描いた墨水画ですが、以前ならゆうに三週間はかかっただろうが十日間ほどで描き終わりました。


墨水画

墨・水・色紙

由三蔵





2020年3月11日水曜日

ことば

言葉というものが人の体を傷つけたり癒したりするとすれば。
今日、コロナ感染で死亡した人が日本で十二人になったというニュースを見たのですが。その数字の表現をどのように受け止めるかを自分に問いかけてみると、わたしはそのニュース、情報の曖昧さに何とも言えないはがゆさを感じました。
ここ数年の間に大きな歴史的惨事がいくつも起こっています。
今現在その一つ惨事の真っただ中で生きています、、、、、、。

惨事そのものはもちろんですが、言葉、映像、情報の恐ろしさを経験すると同時に、自分自身それなりにしっかり、過去、現在、未来の中の今を見なければと感じました。

2020年3月9日月曜日

# Good Art

すべての人々の中にアートがある。(ベネチュア・ビエンナーレの概念のような?)
そういうアートを、外(世界)に向けることを、するかどうか?を現代のアート・イベント(日常の)などがしていることのように思います。で、もう一面のアートはまったく個人的な趣味のようなもので、好きで好きでたまらなく何かを創っている、また描い(書い)ているが、外(世界)は気になっていても悶々としているが、別段それだけでいいのだ、というのもあるでしょう。すべての人々にアートがある。というならば、それすらほんの世界の一部の出来事でしかないでしょう。
そんな事を考えていたら、アートという言葉が何を指しているのか、ほとんど分からなくなってきます。アーチストやら芸術家などなど、近年ではスポーツまでアートになってきました。まさか政治まではいかないとは思いますが、経済に組み込まれていることは確かのような気がします。そして、その根底に人類の起源があるとしたらなら、それは宗教、哲学、科学につながっているということになります。

身近にいる、アーチストと称する人たちをもう一度観察してみて、わたしの中のアートを見つけてみてはと。はたして見出すことができるかどうか、、、、、、?
むかし、むかし、デザインという外来言葉が流行りだし(今は当たり前)ましたが、わたしにはそれと変わりないようなアートという言葉でしかないように思います。

ごきげんいかが?という英語はありますが、ごきげんななめ?という英語は何でしょう、、、、、、。
どちらも、応えは Good!ですかね。


2020年3月6日金曜日

無「意識」

医学上の意識があるないということではなく、よく言う意識して何かするということの意識のことですが、例えば何かしようと思い行動(行為)するのと何も考えず行動(行為)してしまう。その両方に意識というのは実は働いていないのではないか。自分が意識しているというのは錯覚であって、その行動はおのずと行為が立ち現れたといことの中に意味があるのであって、意識していようといまいと、何かをしようとしていたのか、いなかったのかは「何かをした」という過去の表れがあるだけで、もともと「意識」というのは無いのではと。それを自己の意識と思うのは過剰な近代科学の影響によるものではないかと。それは他者の行動を見て思考するときに、ほとんど他者の意識などというものは、言葉以外に理解できない(正確には言葉だけでも理解できない)ということからもいえるのではないかと思うのです。
最近、自分は大変重要なことに今頃気が付いたのですが、言葉では到底あらわすことのできないもので、今まで経験してきた思考の仕方を変えなければならないが、そう簡単に長年生きてきて体得した感覚や思考、つまり多くは物理的に目に見えない事物のことを何とか納得できるようにしたいと、真剣に学ばなければと、、、、、、。

偶然幸いなのは、水墨を描いていることが唯一の頼みになりそうだということです。

2020年2月28日金曜日

数十秒間の美

今日、アトリエから車で帰宅する途中に信号機で止まっていると二人の小学生が横断歩道を渡ってきた一人は駆け足で渡り切ってしまったが、もう一人の女の子はずっと私の顔を見ながら横断歩道を歩いている、その顔が妙に気になり私もその顔を見ている、渡り切ってから、車の横まで来ると立ち止まって少し微笑んだかと思うと直立姿勢で両手を膝のあたりに持ってきて深々とお辞儀をした。
そしてこちらを少し振り向きながら歩き去った。
それから、私はその数十秒間の映像が脳裏から離れず、できれば鮮明な記憶として残したかった。
家に帰ってネットで「大段歩道を渡る小学生」と検索したらいくつかの画像があった。それらを元に記憶に重ね描きするようにしてイメージを定着できたような気がしている。
いつか画で生かしたいと思いました。

兎に角、小学生だったのだけれど、なにか日本の女性の美しさの原型を見たような、そんなふうに感嘆してしまったというお話です。つたない文ではではとてもこの知覚したものを伝えられませんが、この経験をブログに記録したかったのです。

2020年2月13日木曜日

導調

美がどのようなものであるか、言葉にすることはむずかしい。

けれど、いままで幾度もわたしの目の前に現れていることはたしかで、それは内心の苦しみを和らげ、信じることの何かへ導いてきた調べである。
そこから、いつもまた新たな探求が始まる。

そのモチーフ(導調)が立ち現れてきたら、できる限り精神を停止させる。
休むことのできない働き続ける身体は、なるべきように生る。


写実的墨水画を描くという方法論はそのようなものですが、現在活躍している若い驚異的リアリズム絵画の画家たちに同調できるとろもあるけれど(雑誌や画集を読んでの限りですが)描くという身体的な行為を語る人のないこと、時間をかけて調査、取材、絵画の歴史からとか、あるいは光学を語るのもいいけれど、日常のあたりまえの感覚を哲学することも重要ではないかと。
ここ数か月、描き続けたせいか、親指の付け根に痛みがるけれど、その痛みは誰にもわからない、、、、。という当たり前のことですかね。



墨水画  20号

 「まゆ」


顔をズームアップしました。
微妙な表情を表現することが難しかった、、。






2020年2月12日水曜日

初公募展、落選

初めて公募展に出品しました。
案の定、落選という結果になりました。でも、本当はもしかして審査員の中に私の描いているような水墨画に問題意識をもってくれる方がいればと若干の期待を抱いていたのですが、サイズの小さいことは大いに関係していたようですね(たまたま、驚いたことに私の先輩がこの運営事務局長だったのですね。ああ、知ってたら50号描いたのに、、、でもサイズだけの問題でもないでしょう)50号から20号とい中で私のは20号。(正直なところその距離では水墨の良さは分らないでしょう)公開審査ということで会場で見ていたのですが、約五メートルほど離れたところから四点づつ300点ほどの作品を見て一次審査をする、審査員は四人、審査委員長は体の具合が悪く欠席。(まあ、落選者の愚痴として書いています)
どうして、この年で公募展などにだしたのかは、一言ではいえない理由がありますが、ひとつの夢と思っていただければ良いかと、今思えば宝くじみたいなものでしょうかね(笑)
ただ、落選したからというわけではないのですが審査員4人の方の選ぶ作品を見ていて美的判断力の無さに幻滅しました、、、、、。あなた方、カントやベルクソンなど読みましたか?美学を探求したことありますか?と選考しているのを見ていて、そんな気がしました。
、、、、、はい愚痴はこの辺でやめときます。


出品した水墨の作品です。


墨水画 20号

麻紙



「まゆ」






2020年2月10日月曜日

わたしの墨水画

水墨の現在は偶然を生かすことに重点をおいているけれど、わたしのは少し異なっていて、偶然をおさえることによってリアリズムを探求し、そこから立ち現れ来る偶然の妙を味方にしたいと思うのだ。

不自由なことは、自由をあきらむる、なにかの表れだと思う。


絵画とは、その他の造形芸術がなし得るよりもはるかに深く理念の域に徹入し得るし、またこれらの理念に応じて直観の領域をいっそうし得るからである。
「判断力批判」カント(角川文庫)~より

2020年2月7日金曜日

震える心のアンテナ

「世界は終わろうとしている。まだ続いていくというただ一つの理由としては、世界は存在しているという理由しかない。この空の下に、この先一体、何をしようというのか。考えてみよ。物質的な存在は続くと仮定しても、そんなものが世界と呼べるか、歴史と呼べるのか。この世界が南米の共和国のような術策と道化を余儀なくされるとは言うまい。私達は、又、野蛮状態に還り、私達の文明の草だらけの廃墟を横切り、小銃片手に食を求める様になるともいうまい。そんなことは言わぬ。何故なら、こういう運命或いは冒険は、尚、原始時代の木霊、生き生きとしたあるエネルギーを予想するからだ。私達は新しい実例として、非常な道徳律の新しい犠牲者として、生活の条件と信じて来たものによって亡びるであろう。機械は、いよいよアメリカ化するであろうし、進歩は、私達のうちにある精神的な部分を、すっかり委縮させてしまうだろう。この実際の結果に比べれば、夢想家の、どんな血なまぐさい、瀆聖の、不自然な夢も問題ではない、ものを考える人に私は訴える、生命というものがあるなら、見せてほしい、と、宗教については、言うも無駄だし、その残りを捜してみる要もない、と私は思う。なぜかというと神を否定しようと肯定を祈る者だけが、汚らわしい奴となるというていたらくだからである。所有権は、長予権の廃止によって、実質的に消滅した。しかし、やがて、人間社会が、革命の正統な相続人と信じた人々から、その最後の持ち物まで復讐鬼のように、剥ぎ取ってしまう時が来るであろう。だが、まだこれは最大の悪ではない」―

この文章は、小林秀雄「近代絵画」のなかの「ピカソ」で引用されたボードレールの手記からです。
この後も少しつづくのですが、なぜ小林秀雄が「ピカソ」の論評で長々とボードレールのこの詩的な言葉を引用したのかー。わたしは、ピカソの絵を観て小林秀雄が知覚した一部であるとは思いますが、、、、、。何かを予言しているような気もします。

兎に角、読んでいて心が震えたので書き込んでしまいました。

2020年2月6日木曜日

近代絵画

絵画についての批判論は沢山あるけれど、面白く読めるような文章を書ける評論家はあまり多くはないような気もする。最近では芸術専門の人より文学者とか科学者とかが書いた文章の本が味があって面白いと思う。
小林秀雄「近代絵画」の中のセザンヌとピカソをまた読んで、前には感じたことがなかった精神的ではない肉体感覚のような、手触りを味わうことができた。
もう一人「気まぐれ美術館」というタイトルで芸術新潮に連載されていた洲之内徹という人も優れて個人主義的で面白い、特に無名に近い画家たちを発見して書いていて、近年にはいない批評家であると思った。

画家というのは絵について多くを語らないというのが通説のようだが、中にはダヴィンチの手記やゴッホのように沢山の手紙が残されています。確かにそれらを読むと何かわかったような気になりますが、しかし言葉の向こう側には作品があるわけで、それらをどのように知覚するかが私自身の問題であるという感じがします。

2020年1月31日金曜日

チャンバラ哲学

わたしは子供のころから「チャンバラ」が好きで、中でも「眠狂四郎」「座頭市」「子連れ狼」「必殺仕置き人」シリーズ、任侠と武士道が入り混じったようなドラマや忍者もの宮本武蔵、あるいは黒沢映画などなどを良く観たものです。
今現在でもDVDに録画したものを観るのですが、何が自分を惹きつける魅力なのだろうと問いかけたときに、そこに立ち現れてきたのは「いき」の構造、「信じるということ」でした。それは日本語で哲学するということでもあると思いますし、宗教も絡んできます。日本民族だけがもつ知覚能力ではないかと、感覚だけではない、それを超越した言葉で語ることが難しいすべての感官を超えたところにある何かとしか言いようのないものが存在するということです。
例えば現代では薄れてきたようですが、恋愛の仕方などはたかだか百年前と現代では大きく異なるところを考えてみるとよくわかると思います。もちろん今でも「いき」な恋愛も残っていると思いますが、多くの人には受け入れられないでしょう。残念ながら「他者」をどのように自分が受け入れるのか「相手の立場に立って思うこと」ということをどう認識しているかなのですが、他者の心なんか分かるわけなく、相手の立場に立った自分の思いでしかない、実に主観的であるというということを理解したうえで無意識に立ち現れてくるのが「いき」な行為であると、これは一種の美意識なのですが・・・。現代の恋愛は単なる欲望か、社会的、経済的に足を引っ張られたものが多いのではと思います。
まあ「チャンバラ」の魅力はそんな恋愛ではなく、おそらく殺す殺される、その殺陣が気分をスッキリさせるというところが大きいとは思いますが、それは世界共通の現象でしょう。そこらあたりを哲学するのはきっと大変でしょうね。
現在も大森哲学、柄谷行人・福田恒存思想あたりを読んでいますが、この問いに近づけるかどうかわかりません。

2020年1月20日月曜日

美術に生きる

久久振りで美術に関する話を、わたしからすれば随分と若い美大卒の女性と長い時間にわたって談話できたことの喜びと、手が届く目の前に存在した、これから美術で生きていこうとしている一人の女性との出会をブログに示したかった。
なかなか自分のような無名の、まして高齢者の絵描きの相手をしてくれる若い人は地方では稀でいなかったが、先日のモデルさんといい、一週間前くらいに某ギャラリーで知り合いになり、お会いしたのは二度目なのだが。モデルになってくれた方はアートとはほとんど無関係の仕事の人であったから話の内容も、美術の話は私の一方通行のようで、まあ世間話といったぐあいでした。
この度の若きアーチスト、リカちゃんはまだまだこれから可能性を秘めた、ある意味では美術の生き方を模索中の人のように思いました。(まるですべて世間を理解しているようなふりをしてる若者ではなく、さまざまな現代の情報の怖さに気が付いている人でした)兎に角わたしが夢中になって話すこと、それを聞いてくれた。もちろんわかってくれたなどとは思っていないが、会話になったのは何かがつたわったな~という感じがした。
家族や身内の人ならともかく、自分の子供ような年齢の他者である女性と会話が繋がったという実感は、ともに美術を生きるという意味で貴重な今頃が立ち現れたような、一種のエラン・ビタール(生命の跳躍)だと思った。

2020年1月18日土曜日

反絵画非芸術

十五年くらい前に、現代美術の川俣正氏が「アートレスーマイノリティーとしての現代美術」という本を書きました。まあ、現代の日本の芸術(アート)に対しての批判です。現代美術は一般の人には理解できないという他の美術との住みわけのようなアートフルに対しての苛立ちにも感じられる。という哲学者の鷲田清一「想像のレッスン」からの言葉ですが。
今現在でもその状況は変わらないと思いました。
わたしの描くという行為で生まれる墨水画も自分が絵が描けなくなってから始まったような感じもあり、芸術を単に「創造」する行為とは言えないところにあります。創造というのが何もないところから創造するという概念が芸術だという誤解が、一層一般の人々に特別扱いされているようにも思うからです。想像力というのはその人の内心にあるのではなく、外の世界との関係の中から生まれるハタラキ、あるいはハズミであるのであれば当然、無からの創造はあり得ないことになります。天才と呼ばれる人もそこのところは同じではないでしょうか。
わたしが知覚した「何か」(言葉にできないもの)を元に何かしらのカタチで表す行為、あるいは試みとしてつくられたモノを作品と呼んでいるのだと思います。
美術(芸術)・アートにはには、その「何か」を再確認できるような、そうさせてくれるような「揺り戻し」のチカラがあると感じるからです。

トランスクリティークという柄谷行人氏の思想から積極的に言葉を出すということに助けられましたが、過去・現在・未来という言葉の中の「今頃」を生きるしかありません。

2020年1月10日金曜日

2020

ブログの更新、、、。

忘れていたわけではないのですが、水墨に集中していてブログに気が入りませんでした。
やっと、新しいモチーフの20号の墨水画の完了にめどが立ちました。アルバイトもやめ昨年の11月頃から始め、暮れから正月もなくアトリエ(伊東のボロ家)にこもって制作に集中していました。
その作品は初めての全国公募展へ出品します。今回で最後となる「IZUBI」とういう静岡県伊東市のビエンナーレです、もちろん選外であれば展示もされませんが、まあ運が良ければ入選できるでしょう! しかし、20号~50号で1点限りの出品ということなので前回の感じではほとんどが50号クラス、まして私のは20号のモノクロの水墨、これは運を天にまかすしかないでしょう。でも、この度の墨水画は今まで描いた中でも最高の出来ばえだと自負していますが、どうなるか楽しみです。
今日、借りブチの額装をしてきましたが、若干顔の一部のトーンが気になるり修正してから2月の始めに搬入です。

今年はオリンピック・イヤーですね。
兎に角、皆さまともども良い年になればと思っています。