2016年10月27日木曜日

キース・ジャレットを聴く

先日のことギャラリー仲間とキース・ジャレットの話になった。それぞれに何処が好いのか少し違うかもしれないが好きに変わりはない。どうも話をしていると一番数多くアルバムを聴いてきたのは自分らしい。バッハの「ゴルドベルク変奏曲」をチェンバロで弾いたアルバムがあるよ・・・内容はうんぬんで素敵なアルバムだと話すと、そこにいた三人が、ぜひ聴いてみたいという。
そういうことで、貸してやる約束をした。

家に帰り、そのCDがあることを確かめ、話した内容にまちがいないか解説を読んでみた。かなりいい加減な事を言っていたようだが、まあいいか・・・。音楽が良ければそれでいいのだ。
久しぶりでキース・ジャレットを聴いた! 
沈黙。(その感覚は言葉にできない・・)

そして、今夜も模写が終わり気分が好いので一杯やりながら、「チェンジレス」ピアノ・トリオ、「ブリッジ・オブ・ライト」というオリジナル作品集(弦楽オーケストラ・バイオリン、オーボエとピアノによる現代音楽)のアルバムを聴いている。
それらの解説書にキース・ジャレットのメッセージが掲載されているが、まさに音楽の哲学だ。・・・私は作曲家であろうとはしていない。・・私たちがいてもいなくても存在し続ける宇宙、進行するハーモニーに屈状した状態。自分自身を引き渡した状態のことである。(キース・ジャレット)

彼のピアノのような水墨が描きたい。 なぜか、そう思った。
どうやら、同じ音楽を聴いても、この年になければなら分からない何かがあるようだ。

昨日は丸一日、フェルメールの模写を手掛けていて、ほぼ完成した。(ブログには掲載しません。12月末の展覧会でお披露目します、是非、水墨だけで描いたフェルメール「レースを編む女」を見に来てください。)
模写の感想は、といえばまさに絵画の驚異を経験した。約23センチ四方の大きさの中に絵画の全てが凝縮されているような、技術的に完璧ではないのに完璧に美を指し示していると思った。よく言われるようにカメラレンズを通して視た世界だろうが、それを見ているフェルメールの眼を想像する、そしてその筆を操る手のハタラキは天才の驚異としか言いようがない。


2016年10月25日火曜日

フェルメール模写 3

見ると云う事。このあたりまえのことの奥深い妙なることの思索はつきない・・・。
人は生きている限り何かが見えている。眼を閉じていても瞼の裏側を、眠っていても夢を見る。
だが、それは「見ている」のではなく「見えている」のだろう。
では「見ている」とは何だろう。
自分が意識して見た時のことだろうか、それとも見えている対象が自分に働きかけて「見ている」という意識を起こさせるのだろうか・・・まだまだ考えれることもあるが、どのような場合でも自分が見ていることで他者が見ている、見えていることとは厳密には異なっているということ。視覚は、つまり味覚や触覚、聴覚、臭覚といった感覚から生まれる、総合であるということで、モノが見えるということは、それらの感覚を抜きにしては考えられないといことになるのではないかと思えてきた。

フェルメールの模写をしていて感じた、その見ているけれど、見えない感覚のモノをどう描くかという面白さ・・・見えなくても描く、それはまるで時間が止まった空間に現われる何かのような妙なるモノを見るということのようであった。(霊など見た事無いけれど、上手く言葉で表現できないが、描きながらゾーとするような、でもチョット心地よい感覚を味わった)

さて、この模写が終わったなら。つぎに美しい鬼が描けそうな気がしてきた。

写し間違えもかなりあるが、もう少しである。兎に角、描き始めて延べ約一月半になるがこんなに長く深く一枚の複製絵画を見ると云うのは初めてだろう。






(拡大画像)


フェルメール  「レースを編む女」

水墨模写


由三蔵 画



2016年10月19日水曜日

不来方の

啄木の「一握の砂」のなかにある歌。

不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心・・・というのがある。

その歌をわたしが知ったのは何とお恥ずかしい話だが夏目雅子主演の映画「時代屋の女房」の盛岡での一場面であった。
現在、六十歳を超えた自分が、空に吸われし心があるかどうかわからないけれど、何か自由にときはなされたい気持ちに成りたい時に浮かんでくる歌である。
この歌の「不来方の」(こずかたの)がずっと気になっていたが調べることも無かった。勝手な解釈で、ずっと「何かかだれかか来ないものを待っている」ような気持かと思っていたのだが、最近、調べてみると盛岡城のことらしい。でも、それだけではあまりに簡単すぎる。作者がどのような気持ちを歌ったかは解説はされているものの、この歌の美しさは人さまざまにあるだろう。
「不来方」とは、やはり未来であり過去であり、空に吸われし十五の心は「たった今の永遠」のような歌にわたしは思うのだ。
天才、啄木は十五にして無常を会得したのだろうかと・・・。
ふと、それはフランスの詩人ランボーに重なってしまった。
(これは思索の重ね塗りのように20世紀の哲学者、ウィトゲンシュタインの言葉をも思い起こすし、マルセル・プルーストのテクスト・・・などなど、さらにはいつものこと道元の正法眼蔵に繋がっていく、妙なことだ。)

そうなんだ、わたしの好きなも全てはどこかに何か中心を持って磁力の渦のように多次元で関係し合っているではないか・・。
さまざまな五感が受動するカタチの中から現われると自分が考える理念の美。そのような美は苦痛を癒してくれるというが・・・
・・・・やはり本当だろうというといことを感じる今日この頃である。

ならば、わたしも修練してきたささやかながらの絵を描く技術を持つ一美術画工として、水墨を描く事で生をまっとうしたいと思った。自分の作品がだれかの苦痛を癒すことができれば幸いであろう。(いつも自分はこのようにして自分自身を励ますのであります ^.^)
月の裏側にある魅力的な狂気や、原始の呪縛より、日常の凡庸であたりまえの世界の手触りの魅力の方に、今の自分は魅かれているようです。

12月のクリスマスの週に三島パサディナ美術館での展覧会に二作品を出すことが決まりました。
今現在進行中の模写も、いち水墨の作品として観てもらおうかなと思っています。

そうそう歌といえば、若いころからずっと大好きだったボブ・ディランがノーベル文学賞に選ばれました。
そういう時代になってきたのかな・・・・・・時代は変わる、風に吹かれて・・・・・な~んてね。
しかし、ノーベル賞協会ではいまだボブ・ディラン本人と連絡がとれないということらしい・・・・ディランらしい、らしいがいいな~。

今夜、ディランの「DESIRE」を聴いている。
思えば、ディランの歌にはハッピーなものが無い。いつも、はにかんだような表情で、切ない声で唄う歌には、やはり無常を感じずにはいられない・・・。




2016年10月14日金曜日

フェルメール模写 2

フェルメールの絵画、現在模写している「レース編みをする女」の幾つかの複製(写真で撮られたものの印刷物)なのだが、どれもきっと本物を撮った写真だと思うけれど、どれもが若干異なった画像で一番本物に近いのはどれだろうと思った時、考えたことは。
では自分が美術館で視た本物(模写しているものとは別の絵画だが)は何だろうと。その視た時の絵の照明、自分の眼の具合、その時の場所の状況、などなど思えば、本物を視たことのある絵でも、優れた画集の写真の方が自分の眼より鮮明な画像を捉えているのではと、そうすると本物を視た自分の身体の眼というレンズを通して視覚が感じたこと、それがただ本物を視たということでしかありえないようだと。でも、当たり前だが画集と本物を視た時の感覚は確かに違うのだ。しかし、どちらもそれぞれのリアリズムを感じるのは視覚がつくりだす奥深いイメージの凄さだろう。人は「眼を疑う」とよく言うが、「自分の眼を信じる」とはあまり言わない・・・。
自然が自然として目の前にあり美しく、それを描いた絵が絵として美しくあることとは、どうやら同じ感覚にあるのではなかろうかと思った。ただ、自然と絵とはまったく異なって人の視覚が受け入れる感覚なのだが。そう、これも当たり前のことなのだ、しかしこの当たり前のことを疎かにしていた自分にハッとした。
どうしてか、近頃ものが今までよりも妙に良く視える(現在の近視、乱視、老眼とは別)ようになった気分がする。自分の眼を少しは信じられるようになったということだろうか・・。
この「レースを編む女」の本物は観た事が無い。ますます観たくなったけれどルーブルまでは到底無理である。でも、ありがたいことに技術が進歩した現代、写真機が写した絵の高精密度印刷の複製は模写していると、不思議にある瞬間瞬間の一時だが本物を観て描いているような空機が起こる。これも視覚の妙である。
そういえば、天才画家のダリもフェルメールに傾倒し中でもこの「レースを編む女」の絵が好きで模写などしていたらしいが、凡人でないのは、この絵を視ながら模写している画面にはサイの角が現われる。この天才の偏執狂的表現に恐れ入る。
若いころに買った「天才の日記」サルバドール・ダリ著を最近読み返してみたが、彼は狂人なのではなく優れて頭の良い天才を演じる偏宗教的天才画家だという思いがした。(宗教的というのは彼は天使の存在を本当に信じていると思ったからだ、きっと幽霊が視えた人だったのだろう・・・)




水墨によるフェルメールの模写

由三蔵 画

7日目

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