2016年12月28日水曜日

過去のブログ削除

絵を描くという、言葉を考える。
よく使われる「絵を描いている、絵を描いた・・」などという言葉のことです。
描く絵と、絵を描くと云うことの、まるで食わず嫌いのような偏食的な違いを思いました。
わたしの場合、なかなか絵が描けないというか、食えない絵というか、絵ではない絵とでもいうか、絵を描いているのでなく、描いているモノが絵になる。とでもいうほうが正しいように思うのですが、それはいかに思考すればいいのかと・・・。
なぜ、そんな事を考えてしまったかというと、今回の模写をしている途中の画を撮った写真が意外と絵として面白いのではと思い、年賀状にデザインし使ったのですが、なかなか好い出来で「おお、これはセザンヌ様に近づいた・・」などという、自己満足の感覚が立ち現われたからなのです。
まさに、フェルメールの絵を観ながら描いているのだから、言葉どうり私が「絵」を描いているということになります。
おおよそ、プロと呼ばれる画家たちは自分の経験の中で観た絵が頭の中に渦巻いていて、その画家たちが見て描いている風景や静物、人物、はたまた抽象にしても、記憶の中にある絵を紡ぎだしながら(無意識にしろ)描いているのではという思いが起こりました。(ピカソやモジリアニーなどなどアフリカや古代の創造物に眼が入ったのもそうかも・・)
そう、だからやはり絵を描いているのですね。自分のように描いている行為がカタチとして絵になるという云い方(思い)と若干異なるのですが、微妙な、奇妙な、またどうでもいいという、つまらない話です。
哲学ではこのような思考をコペルニクス的云々とか三段論法?などと云うようですが、それとは違い恣意的で論法でも形式でもない・・・なにものか?という答えの出ない何かで、きっと終わることが無い「私」の問いかけの探求なのでしょう。
例えば、今回の文章の「絵」という処と「描く」という動詞に何かあなたの自分の機になる好きな言葉を入れ替えて考えてみると、どこかで読んだノウハウ本を思いだすかもしれませんね・・よくやるのですが、理解しにくい文章など自分流の言葉に置き換えてみると案外入りやすかったりします^^)

兎に角、今夜のブログはいちだんと恣意的になってしまいました。
さて、展覧会も終り今年も残り少なくなりました。月並みな言い方をすれば、わりと密度の濃い充実した一年であったと思います。暦の占いでは八方塞で自ら行動することは控えめにということで、時流にさかわらず過ごしたわりには何か明日への収穫が多かったように思いました。
やはり、一番は最後の展覧会でしょうか・・・。その訳を語るにはまだ感覚が曖昧ですが、勝手ながら本年までの過去のブログ投稿記事を削除しようと決めました。

明確に言葉にできないこと。それは知覚や知識が自己認識を可能にする。

そしてそれは創造性だろうという考えが立ち上がってきたことによります。








2016年12月24日土曜日

わたしの消息

今の自分、つまり私は・・・・・水墨の魅力で真の美を指し示すようなリアルな絵を描けたらと思っている。
今回のフェルメール「レース編みの女」の模写の経験は、いまだかつてない描く事の喜びをわたしにもたらした。それは画家の眼を追体験するような感覚を味わってとでも云うべきか。
そこには、匂いや手触りといったものまで感じることができた。そして水墨を筆に取り重ねて描いてる自分が「私」ではなく、わたしから浮遊したような身体が描いていたような、すでに過去の記憶として思い起こされる。
兎に角、何かが大きく、いや小さな変化を感じたことは確かだろう。
自分が今まで考えていた概念が過去の既成概念になって、新たに立ち現われ生まれてきた思考は仄かな光で照らされているような。その後、つづけて描いて絵になったのが「青鬼娘」だが・・・。
わたしがわたしを捉えようとするとわたしはす~とどこかへ消えていく。
だからといって、わたしは世界の中でわたしで在ろうとする。
わたしがわたしからいなくなる恐ろしさ・・・・・。
それは、子供の頃に経験したことで、自分から抜け出た自分の存在の記憶である。それは成人になるにつれ無くなったが、ベットで寝ている自分をもう一人の自分が天井の隅から眺めている光景である。まるで石膏で固められたように身動きできないわたしがそこにあったこと・・・・・・(あまり語ると創作になるから)ただそれだけだが、なんでこんな記憶を思い起こすのか解らない、けれどこの度の模写の体験はそれに近いところに在ったみたいで、魂だとか霊だとか関係なく思考することで認識したいと思っている。

あなたがわたしを観るとき
あなたはわたしをわたしとして観ている
わたしと同じように・・・
あおきむすめよ


「青鬼娘」部分

水墨

由三蔵 画





 


2016年12月21日水曜日

The Lacemaker 「フェルメール」

フェルメール「レース編みの女」の絵の価値はどのくらいだろうと、ちょっと検索してみたが最低100億円~らしいが、戦争でも起こらない限りルーブルから出ることはないだろう。この絵画の解説は色々な図鑑でされているので、知らなかった方は読んでみるといいと思います。
この絵が多くの画家たち、また美術愛好家から驚異的に評価されるのは、まずそのサイズにあるだろ。それは、本物の名画を見なくても優れた複製図版で原寸大の作品として見る事が出来るということは、世界の名画の中でも唯一ではなかろうか。(実際、デューラの版画とか他にも個人的にはあるけれど・・)また、そんなことだけで名画なのでもない、この絵の本当の魅力は模写して始めて解ったことがある。それは、絵全体をひと眼で見ると穏やかな日常の編み物をする景色だが、しかしそれだけでは見えてこない細部をなめるように視た時に感じる臨場感は驚異としか言いようがない。特にそれは編み物をする女の視線が向かう手元の二本の糸の交差するところにあるだろうと感じた。
模写にあたって、この二本の糸、そのものの明暗強弱を紙の白を残し水墨で表現することが出来るか?ということに強く興味があった。模写に着手する前に絵を何度となく見詰め、その制作技法をイメージし、その手元の部分からから描き始めた・・・・。
兎に角、模写している時の、なんというか豊かな思考の流れや感覚を全て描き表すことは出来ないけれど、蒼いクッションのような道具入れからはみ出す白と赤い糸は、まるで水が流れ出るように描かれ、布や女の髪や顔の輝きはぼかされている。それから・・・・・また全体に二眼を注げば、驚く事に、そこには三次元の空間が視覚されるのである。
その絵の美の神秘の科学を感じたのは、この約21センチ四方の大きさに注がれる視角うちに立ち現われる感覚にあるのではではないかと・・・。
そんなこともあり最近になって、「光と視覚の関係」「脳と心の地形図」といった本を買って読んでいるが、科学では解明できないことがいかに多くあることかと、しかしそれより脳の仕組みや働きについて、自分の知らなかったことがさらに多くあることに知識のなさを痛感した。

それはさて置き、ほんとうにこんなに小さな絵でも十分「美」の世界を表現出来ることを知覚した。絶対ではない模写だけれど、豊かなぼかしとリアルな細部の臨場感をモノトーンに出来たこと、これは水墨作品としてもいいのではと思い、この度の展覧会に出品させていただきました。



「レース編みの女」 フェルメール
(23.9×20.5)

この度、水墨で模写した原画です。
自分の記憶が正しければ、中学校の美術の教科書にありました。
間違っていたとしても、わたしが目を閉じて立ち現われる
この絵を最初に視た景色なのです。

おおよそ約50年前のことです・・・・。







 

2016年12月17日土曜日

ごあいさつ

今年も残りわずかとなりました。
年末恒例の当美術館「ゆかりの作家たち展」を開催いたします。今回は約70名の作家たちの作品を展示します。
皆さまお誘いあわせのうえ、ご高覧賜りますようご案内申し上げます。

・・・と館長の言葉。

今日から約一週間、三島パサディナ美術館での展覧会が開催されます。
出展参加したものの、正直いいますと、この美術展の主旨たるものも良く分からないのですが ^ ^) 兎に角、美術の発展(?)の中に小さなザワメキとなればいいな~などと気楽に考えている次第です。

次の作品の発表予定は未知だが・・・・・・。
わたしの毎日はほとんど水墨絵画に専念している。(なんて、セザンヌのように・・)
とはいっても、現在、最低限の生活を維持するために描く事に専念できる時間は限られてる。それはしかたのないことだが、少しはそれもかんがえなければならないと思い始めている。

まだモチーフも決まらずあれこれ迷い、その対象となりそうなものを見つけ出すことは画く事と同じくらい重要なことで、あたりまえだが、ただ美しい眺めの景色ではモチーフにはならない。それを決めるのは自分の全ての感覚以外のなにものでもない。
わたしの言う景色とはただ自然の風景というのではなく、人の顔、身体、物質、などに現われている外観のことである。
しかし日常出会う人やモノ、また美しい風景に感動したりすること抜きにはあり得ない事も確かではないかと思う。
そのモチーフとなる景色が決まり水墨としての構想が立ち上がって来た時から描く行為が始まる。一か月二か月と描き続けることに精神的に耐えうるモチーフでなくてはならず、対象を見つめる時に眼球からもう一つの手が伸びて触れるような感覚を想像できないとダメなのだ。水墨で描き上げた絵が、なめらかな明暗による写真的表現の描写であれ、知覚できうるものの実現の探求のプロセスであれ、そこに詩が無くてはならないと考える。それが今のわたしの水墨絵画の道だと思っている。
こらからどのような技術的変化が現われるかわからない。なぜならフェルメールとセザンヌの芸術にはまだまだ学ぶところがたくさんあるからだ。それは「世界を観る眼の哲学は止むことはない」とでも言っていいと思う・・・そのことばにある。
ひとつ、またひとつと作品を発表していくごとに、リアリズムへの欲望の乾きが生じている。それは本当に生々しい命の感触を表現できる対象に出会うことからはじまるだろうと考えるが、そう簡単に思うようにはいかないものだ・・・。

「セザンヌ絶対の探究者」という画文集が手元にある。
そこには「・・・・私は私自身を真実の上に当てはめて写したいのだ。私とは何なのだろうか。真実の魂にまで到達すること、真実をあるがままに表すこと。」という哲学的な言葉が表紙に書いてある。
自分はいつも、何なんだ、この言葉は?とため息をついている。



2016年12月12日月曜日

今年最後の展覧会

美という言葉を考えてみる。
なにかを観たり聞いたり味わったりした時に、「美しい」とか「美味しい」とかいったこと以前の本質的なことを意味している言葉が「美」だという考えがあった。それはやはりそのたった今、石垣りんの一編の詩を読んで感じた、心が揺さぶられた、美しい鬼に出会ったような感覚にもあてはまる。
普遍的などという言葉はあまりにも崇高過ぎて、現実的でないので使いたくないけれども、なにか一つのものを求めてあれこれやってきて、まあ年食ってくると、しかたなくそのような強烈な刺激に対しては普遍的とでも言いたくなってしまうのである。
このブログ「美の周辺」という2010年に始めたタイトルだが、我ながら的を得ているのではと、周辺とは美が伝播してくるノイズのようなものを受け止め、その場しのぎで立ちあらわれ来る感覚を表現しているようなことになると思った。
美は相対論的にあるのではなく主観的普遍性にあるといことだ。そして「どうせ、わかるはずがない」という態度を抹殺していかないと美しいものを観たり聴いたりしても「美」の真理に近づく事もできないだろう。

兎に角、本やメディア、情報などの言葉や映像でしか出会えない高度で素敵な経験も確かに好いが、それにも増して身近で直に触れ合えそうな人やモノの魅力にはかなわないだろうという、自分が知覚できるような欲望は消し難い。その心は少しダリのような偏執狂的?ではあるが、なんとか画く事でカタチにしたい・・・そう思う今日この頃である。

さて、今日は三島パサディナ美術館「ゆかりの作家たち展」の搬入に行ってきた。
小さな美術館に約70人の作家の作品が並ぶ訳だから、肩を並べるように所狭しと何かと窮屈な展示になりそうである。まあ、それもいいだろう・・・・・。
この展覧会も今年で最後になるというので寂しいが、地方の小さな個人美術館の経営もなにかと苦労が多かろう。
ほとんどの作家さんは一人1点のようだが、出展の誘いを受けた時に新作2点出させてくれるなら、という約束どうり「フェルメールの模写」色紙大と6号「青鬼娘」を搬入させていただいた。
館長自ら肌寒いロビーで受付をされていて、この方は本当に美術が好きなのだろうと妙に心が熱くなった。


美しいとか醜いとか、優れているとかいないとか、好いか悪いか・・・・・何を観るかは人それぞれだが、それぞれの方々がそれぞれの作品を観て、そこに個人的に立ち現われる感覚は何なのかをも見つめてほしいと思います。
昔、映画評論家の淀川長治さんのように、美術って本当に好いですね・・・・・と云っていただくと嬉しいです。



「青鬼娘」

フェルメール「レース編みをする女」 模写


水墨

由三蔵 画




今回、搬入した水墨画の作品です。
上の画は全て青墨で仕上げました。
よく妙玄な墨色などといいますが、画ももちろんですが
墨の色も観て頂きたいと思います。

下のフェルメールの模写ですが、何度もブログで描いているように
元の絵が完璧な美学的表現に充たされているため
水墨の模写も「フェルメールもビックリ!」と館長さんが言ったように
かなり自分では納得のいく画になりました。

今回の水墨の水は水道水ではなく、市販の天然水を使い
硯で擦った墨汁をつくり使いました。
画を見ても何処が違うのか分からないと思いますが
描いている感覚は確かに何かが大きく異なっていたことは確かです。

そのあたりに「美」が立ち現われるのではと・・・






 

2016年12月10日土曜日

こころのこり

朝日新聞朝刊の「折々の言葉」に、心のコリ(嫉妬や憎悪などの情念)をほぐすのも芸術の役目だろう。というようなことが書いてあった。
もちろん、それもあるだろうが、なにも芸術などでなくとも趣味や娯楽、子供やペット、優しい微笑みなどなど沢山あるように思う。まあ、そのコリ具合にもよるだろうが・・・・。ではその心とはいったいどこに存在するのであろうかと。自分の意識のハタラキによって立ち現われてくるものだと思っているが、身体の痛みとか肩こりとは違い、やっかいな存在でありまた人にとって不可欠なものである。しかしどうもその心とは自分の身体の中にあるとも考えられないのだ。そして、容易くは手に入らない感覚の領域、そのあたりの真理の探究にこそ芸術の役目を感じる。
わたしに画を描かせる心とはそのようなものであり、美術のチカラではないかと。

「あなたの頭脳が想像しうる最も驚異的なビジョンは、レオナルドかフェルメールの名工的才能でもって描かれうるのだ、ということを知らねばならぬ。」
「もしあなたが、解剖学を遠近的技法を、デッサン技法を、そして色彩に関する科学を、学ぶことを拒むならば、私はあなたにいわせてもらいたい、すなわちそれは天才の徴候というよりむしろ怠情の徴候なのだ、と。」
「まじめに・・・・・。ふまじめに描いてはならぬ。」
「レース編みの女」はこれまで、平穏無事の絵のように思われてきましたが、しかし私にとっては、もっとも激烈なもののなかのひとつである。美学的な力によって支配されているのであり、その力に対しては、ただ最近発見された反陽子のみが肩をならべることができるのです。」
・・・「天才の日記」サルバドール・ダリ著・東野芳明訳より(1974年1月20日初版発行)

ダリの偏執狂的方法が、じつは人間のさまざまな学問や実験、また肉体に関する生物学的革命の観念から紡ぎだされて来た芸術だということを、若き頃に購入した(こころのこりの)この本を再読していて感じた。

水墨の絵を発表するようになってから、よく聞かれることがある。
「なぜ水墨画でなければならないのか?」と、つまりはたぶん写真のようにリアルに水墨で描いているからだろうと思うけれど。
いつもブログで時折思いつきで書いてはいるが、いつもうまく言葉で言えているとはいえない。
きっと、ようやく自分にとって身体に馴染むような絵画の世界を見つけ出すことができてきたからだろう。
「画家よ、きみは雄弁家ではないのだ!だから黙って絵を描きたまえ!」とダリの日記の言葉に叱られそうだ。^^)

こころのこりはこころのこりのあわれなのか・・・・・・・・。



画題 「青鬼娘」 (部分)

水墨画

由三蔵



写真で撮った画なので雰囲気がかなり異なっています。
是非、実物を観に来てください!

この度は青墨で描きました、濃淡の美しさを見て欲しいと思います。





 

2016年12月5日月曜日

恣意的

その意味は、勝手気ままに、思うがまま、場当たり的といった形容詞であるが、「恣」は、ほしいままに、好き勝手な心や考えの意味もある。また、無作為や定まった意図が無いという意味もあるようだ。いずれにせよ優柔不断で曖昧な言葉だが、妙に気に入っている。まあ、普段会話の中でまったくといっていいほほど聞かれることが無い言葉だと思うが、教養のある方々の会話の中には登場する言葉かもしれない。
だいぶ前、五年ほど前になるだろうか。その頃にお付き合いのあった教養ある自分より年上の女性に会話の中かで言われた言葉が初めて聞く「恣意的」という事だった。つまりが、わたしのことを恣意的な言葉で表現する人ですねと・・・・その時には意味もわからずうなずいていたのだが、後で辞書で知らばればあまり良くない、まるで無知な人間のように思った。
しかし、その時に彼女は「好い意味で」という言葉が追加されていたのを思うと、自分らしいのかもしれないとも、やはり恣意的に思ったのだ。
で、最近買った本(正法眼蔵の関係)の中に二度目の「恣意的」という言葉が使われているのに出会った。で、自分が恣意的人間だとすれば自分が描く絵も恣意的絵画ということになるのか・・・・。(超恣意的写実主義なんかどうだろう?   ^^)

☆ さて、今年ももう師走。
いよいよ初参加のこの界隈の美術展覧会に自分も作品を出します。右に広告を作りましたが、毎年恒例の展覧会らしいのです。なんと約70人の作家の作品が並びます。(展示作品の売却もあるそうです)
私も新作2点、「フェルメールのレース編みの女の模写」と「青鬼娘」の水墨画を出品しますので是非観に来てください。



この広告はわたしが勝手に自分の描いた水墨画を使ってデザインしたものです。
きっと、こんな事をまじめにやるから「恣意的」なのでしょう。

(実際の展覧会のポスターではありません、あしからず)



 






2016年11月26日土曜日

青鬼娘

久しぶりの投稿になりますね。

おおよそ全ての美しいと思うもの、そのカタチはイビツであろう。純粋な視覚は見ているが、どうしてか人はそのイビツなモノを修正してから受け入れる感覚があるようだ。
だから、映像はそのままカタチを映し出すようにみえるが、それを見る人は、またそれを修正した感覚で美しいと思い、また醜いと思うのだろう。・・うだうだと見ることと描くことをほとんど毎日考えていた。
まあ、こんなのんびりした思考は現代の一見リアルな映像からは程遠いことかもしれないけれど、たとえば醜いものの美とか、美しいものの醜さが一つの存在の中に現われる現象をどのように知覚するか、それは物質化学での証明できない。なのに、テレビや映画などを観てほとんどの人が共通感覚を味わっている。(これを人間が操作している魔術だとすると怖いものがある・・)

現在、わたしは青墨で角隠しの女を描いている。(もうすぐ描き終えたい心境だ)その角隠しの様式のくわしいことは知らないが日本だけのものらしい。昔はほとんど花嫁が装うものだったのだが、今はさまざまである。
わたしには嫁入り前の娘の邪鬼の角が見えるのを隠すためのものかと思っている。で、何故花嫁に角が出るのか・・・・・。兎に角、元々が鬼なればそういうことかと思うが。
最近では平気で婚礼しても簡単に離婚したりもするが、一度角を隠して嫁入りした女性の覚悟は凄いものだろう。鬼だと自分自信が感じる女性は少ないし、現代にそうなふうに思う女性もないだろうが・・そういう純和風の結婚式を観るとなぜだか緊張させられる。
わたしは最近になって女性は鬼だと思うようになってきている。怖いけれど、これほど優しい(男にとってとてもかなわない何かの存在・・)美しさを兼ね備えた存在は無いと思うからだ。(ほんの一部には角をむき出しにしている女性もあるが、めったにいないと思う)
もともとイビツな人間の存在を修復しようとしたのが神話に始まり、文化であり、また様式であるのかもしれない。それらは全て核になっているのが女性であり、男性など存在そのものが修復できないイビツで、女性的な何かを取り入れなければ何もできない悲しき身体であろうか・・。
それはさて置き、青墨の色は一般の墨彩より清々しく透明感にあふれているが、俗に言う真っ黒には成らない墨で、玄妙とでもいうか、まるで夢の中での黒、瞼を閉じた闇のようにわたしは感じる。
さて、はじめて青墨のみで描いている6号の水墨画「青鬼娘」、12月17日から25日までの三島パサディナ美術館での展覧会までになんとか終わらせることが出来そうだ・・・。

描く作品が、なんだかすべ描くたびに、As Good As It Get  という感覚はエゴかもしれないが、じつに妙である。


2016年11月10日木曜日

哲学断章

哲学というのは、インテリ達のもので学識の無い者には読めないモノだと若いころからずっと思っていた。それでも読みたくて、読めないながらプラトン、ニーチェ、フッサール、カントなどなどと、最近ではウィトゲンシュタインといった哲学書にふれてきた。(近代日本の思想家、西田幾多郎、和辻哲郎、小林秀雄などなどはそれなりに優れた人物とは思うが、哲学であったかどうかは別な思いがある)そのような西洋哲学を解説する日本の哲学者の文章を頼りにしないとまったく読めないところが学の無さで、木田元、鷲田清一、中島義道といった方の本を何冊か読んで多少なり哲学が身近になってきた。けれど、実際の哲学とは何かというのは分かり始めたのが中でも社会批判が「ぐれている」ところの中島義道の各種の本であった。その本の中で彼が師としたのが「大森荘蔵」という哲学者だった。そこで初めて聞いた名の日本の本当の哲学者だといわれている人の本を読みたくなり、まずは入門書として中島氏が薦めているのが「流れとよどみ」(哲学断章)で、ここ数日前にやっと読み切った。
読んでいる途中にブログにもちらほらコメントを書いてはいたが、兎に角、その著書の「はじめに」から、文章が衝撃的で誰かに伝えたかった感覚であり、そのなんというか、その私自身の意識の向こうにあったような知覚を目覚めさせるような深い思索している哲学者の言葉が私の中に入ってきたことにハッと気がついた感動であった。
そのような感動は、例えば人の感覚は十人十色であるというが、その十人十色をまるで思考で科学しているのである。それが何だという決め付けではなく、それをどのように考えるかという指針を言葉で表している。自分にとっていまだかつてなかった、ほんとうにゾクゾクする哲学なのだった。(教養の或る方々はもうすでに御承知かも、そのような事は難解語訳カントも思索していたかもしれないが・・)この年にして目からうろこ、いや、新たな触感であり、もちろん美の周辺に微妙にして大きな変化が生じてきたことは確かである。特に世界は因果関係だと思っていたことに問が生じてきた、それが全てを一元論の「立ち現われ」で括る思考で論じていることにもある。

自分が描いた水墨絵画を一人でも二人でも理解してくれれば幸せだと、本当にためらいのない気持ちが起こっているが、この感覚が映し出されているようなリアリズムを大森哲学を読みながら感じた。
十人十色、人それそれの好みは違う。しかし、そんな簡単な理論では世界はバラバラであろう。また十人十色の共通概念の多さが全てを決めるとも思えない。ただ、そこには互いが映し合う世界があるはずだし、立ち現われる心や恋する身体は虚像ではないからである。

一般生活者の自分でさえがこんなに哲学を身近に感じられるような現在を思うと、哲学が一般生活者の床下によどんでいると気づけば、近い将来、よどんだ時流を泳ぐ私たちに新たな光がさしてくるのではないかという可能性を思わずにはいられなくなってくるが、どうだろう・・。

そんな訳で、やっとのことで「自分で考える」ということの何たるかを歩み始めたようだ。その杖になっているのは、やはり付かず離れずの「正法眼蔵」と、今は「大森荘蔵の哲学」がかなり丈夫そうな杖である。


ところで、アメリカの大統領選も決まった。
政治のことはよくわからないけれど、TVを観ていると・・・・ほんの少しの格差で決まったゲームの勝利のように、その重大さはどこかに消されているように思えてならなかった。




2016年11月3日木曜日

写実について


フェルメール「レース編みをする女」  水墨模写(部分拡大)     由三蔵 画

 
何かしらで選んだ対象を眼に見えているよう忠実に描き写す行為が写実画というものだろう。ただ、自分はそれを白黒の水墨で描いているので写実画とも云えないが、それが自分にとって何故水墨なのかの意味説明はしがたい、一個人の感覚の好みが和紙と墨によるもとでも・・・。
まず考える始まりは、やはり「見る」ということはどういうことかということである。
自分の外側にある景色(描く対象のこと)は、どのようにしてそこに現われ、自分の視覚(眼)から入ってきて脳に伝わり手を働かせるのだろうか。
という考えは「見る」といことが対象が眼から入ってくるという受動的なこととして科学的には考えられるが、その逆の経路もなければ「見る」という能動性は起こらない。つまり、脳から眼へ、そして対象へと向かう何かである。そこで立ち現われてくる現象を描くのが写実ということのようであるけれど、そこで自分と対象とを行ったり来たりする何かが問題になる。
凄い写真を越えたような写実画を描く作家さん達の言葉を読むと、さまざまな心の形容は十人十色の個性はうかがえるけれども脳のシナップスの流れの方向を逆にして、脳から眼の網膜へ眼球のレンズへ、そして外の対象へ向かう回路を思索した言葉は読んだことがない。まあ、そんなことは人の経験的科学の枠外かもしれないが、自分の知覚が想起したことを消すことはできない。
何かを「つくる」という行為に、なにかしらの作為が働くのはそのあたりに根拠がありそうなのだが・・・。
それにしても、現代写実作家さんは比較的簡単に自分の眼を信じる方が多いようだと思った。というか優れたカメラの眼と言った方がいいのかな・・。(そういう自分もそうだが、視覚するということの哲学はそう簡単でないと考える今日この頃なのです)

チョット思った。
写実とは関係ない現代アートの批判だが。
まあ兎に角、アートという名目での視覚の騒音のような作品のゴミ?は私のように最小限にし、量産、大作はやめてはどうかと・・・。
もう、これから無いだろうが、街の橋や建物などの一角をシートで覆い尽くした様な現代アートの作品は哲学論一冊あれば足りるのではないか・・・と。

「凄い写実画を描く若手作家たち!!」というタイトルの美術雑誌を読んで自分が思ったことを書いてみた。



2016年10月27日木曜日

キース・ジャレットを聴く

先日のことギャラリー仲間とキース・ジャレットの話になった。それぞれに何処が好いのか少し違うかもしれないが好きに変わりはない。どうも話をしていると一番数多くアルバムを聴いてきたのは自分らしい。バッハの「ゴルドベルク変奏曲」をチェンバロで弾いたアルバムがあるよ・・・内容はうんぬんで素敵なアルバムだと話すと、そこにいた三人が、ぜひ聴いてみたいという。
そういうことで、貸してやる約束をした。

家に帰り、そのCDがあることを確かめ、話した内容にまちがいないか解説を読んでみた。かなりいい加減な事を言っていたようだが、まあいいか・・・。音楽が良ければそれでいいのだ。
久しぶりでキース・ジャレットを聴いた! 
沈黙。(その感覚は言葉にできない・・)

そして、今夜も模写が終わり気分が好いので一杯やりながら、「チェンジレス」ピアノ・トリオ、「ブリッジ・オブ・ライト」というオリジナル作品集(弦楽オーケストラ・バイオリン、オーボエとピアノによる現代音楽)のアルバムを聴いている。
それらの解説書にキース・ジャレットのメッセージが掲載されているが、まさに音楽の哲学だ。・・・私は作曲家であろうとはしていない。・・私たちがいてもいなくても存在し続ける宇宙、進行するハーモニーに屈状した状態。自分自身を引き渡した状態のことである。(キース・ジャレット)

彼のピアノのような水墨が描きたい。 なぜか、そう思った。
どうやら、同じ音楽を聴いても、この年になければなら分からない何かがあるようだ。

昨日は丸一日、フェルメールの模写を手掛けていて、ほぼ完成した。(ブログには掲載しません。12月末の展覧会でお披露目します、是非、水墨だけで描いたフェルメール「レースを編む女」を見に来てください。)
模写の感想は、といえばまさに絵画の驚異を経験した。約23センチ四方の大きさの中に絵画の全てが凝縮されているような、技術的に完璧ではないのに完璧に美を指し示していると思った。よく言われるようにカメラレンズを通して視た世界だろうが、それを見ているフェルメールの眼を想像する、そしてその筆を操る手のハタラキは天才の驚異としか言いようがない。


2016年10月25日火曜日

フェルメール模写 3

見ると云う事。このあたりまえのことの奥深い妙なることの思索はつきない・・・。
人は生きている限り何かが見えている。眼を閉じていても瞼の裏側を、眠っていても夢を見る。
だが、それは「見ている」のではなく「見えている」のだろう。
では「見ている」とは何だろう。
自分が意識して見た時のことだろうか、それとも見えている対象が自分に働きかけて「見ている」という意識を起こさせるのだろうか・・・まだまだ考えれることもあるが、どのような場合でも自分が見ていることで他者が見ている、見えていることとは厳密には異なっているということ。視覚は、つまり味覚や触覚、聴覚、臭覚といった感覚から生まれる、総合であるということで、モノが見えるということは、それらの感覚を抜きにしては考えられないといことになるのではないかと思えてきた。

フェルメールの模写をしていて感じた、その見ているけれど、見えない感覚のモノをどう描くかという面白さ・・・見えなくても描く、それはまるで時間が止まった空間に現われる何かのような妙なるモノを見るということのようであった。(霊など見た事無いけれど、上手く言葉で表現できないが、描きながらゾーとするような、でもチョット心地よい感覚を味わった)

さて、この模写が終わったなら。つぎに美しい鬼が描けそうな気がしてきた。

写し間違えもかなりあるが、もう少しである。兎に角、描き始めて延べ約一月半になるがこんなに長く深く一枚の複製絵画を見ると云うのは初めてだろう。






(拡大画像)


フェルメール  「レースを編む女」

水墨模写


由三蔵 画



2016年10月19日水曜日

不来方の

啄木の「一握の砂」のなかにある歌。

不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心・・・というのがある。

その歌をわたしが知ったのは何とお恥ずかしい話だが夏目雅子主演の映画「時代屋の女房」の盛岡での一場面であった。
現在、六十歳を超えた自分が、空に吸われし心があるかどうかわからないけれど、何か自由にときはなされたい気持ちに成りたい時に浮かんでくる歌である。
この歌の「不来方の」(こずかたの)がずっと気になっていたが調べることも無かった。勝手な解釈で、ずっと「何かかだれかか来ないものを待っている」ような気持かと思っていたのだが、最近、調べてみると盛岡城のことらしい。でも、それだけではあまりに簡単すぎる。作者がどのような気持ちを歌ったかは解説はされているものの、この歌の美しさは人さまざまにあるだろう。
「不来方」とは、やはり未来であり過去であり、空に吸われし十五の心は「たった今の永遠」のような歌にわたしは思うのだ。
天才、啄木は十五にして無常を会得したのだろうかと・・・。
ふと、それはフランスの詩人ランボーに重なってしまった。
(これは思索の重ね塗りのように20世紀の哲学者、ウィトゲンシュタインの言葉をも思い起こすし、マルセル・プルーストのテクスト・・・などなど、さらにはいつものこと道元の正法眼蔵に繋がっていく、妙なことだ。)

そうなんだ、わたしの好きなも全てはどこかに何か中心を持って磁力の渦のように多次元で関係し合っているではないか・・。
さまざまな五感が受動するカタチの中から現われると自分が考える理念の美。そのような美は苦痛を癒してくれるというが・・・
・・・・やはり本当だろうというといことを感じる今日この頃である。

ならば、わたしも修練してきたささやかながらの絵を描く技術を持つ一美術画工として、水墨を描く事で生をまっとうしたいと思った。自分の作品がだれかの苦痛を癒すことができれば幸いであろう。(いつも自分はこのようにして自分自身を励ますのであります ^.^)
月の裏側にある魅力的な狂気や、原始の呪縛より、日常の凡庸であたりまえの世界の手触りの魅力の方に、今の自分は魅かれているようです。

12月のクリスマスの週に三島パサディナ美術館での展覧会に二作品を出すことが決まりました。
今現在進行中の模写も、いち水墨の作品として観てもらおうかなと思っています。

そうそう歌といえば、若いころからずっと大好きだったボブ・ディランがノーベル文学賞に選ばれました。
そういう時代になってきたのかな・・・・・・時代は変わる、風に吹かれて・・・・・な~んてね。
しかし、ノーベル賞協会ではいまだボブ・ディラン本人と連絡がとれないということらしい・・・・ディランらしい、らしいがいいな~。

今夜、ディランの「DESIRE」を聴いている。
思えば、ディランの歌にはハッピーなものが無い。いつも、はにかんだような表情で、切ない声で唄う歌には、やはり無常を感じずにはいられない・・・。




2016年10月14日金曜日

フェルメール模写 2

フェルメールの絵画、現在模写している「レース編みをする女」の幾つかの複製(写真で撮られたものの印刷物)なのだが、どれもきっと本物を撮った写真だと思うけれど、どれもが若干異なった画像で一番本物に近いのはどれだろうと思った時、考えたことは。
では自分が美術館で視た本物(模写しているものとは別の絵画だが)は何だろうと。その視た時の絵の照明、自分の眼の具合、その時の場所の状況、などなど思えば、本物を視たことのある絵でも、優れた画集の写真の方が自分の眼より鮮明な画像を捉えているのではと、そうすると本物を視た自分の身体の眼というレンズを通して視覚が感じたこと、それがただ本物を視たということでしかありえないようだと。でも、当たり前だが画集と本物を視た時の感覚は確かに違うのだ。しかし、どちらもそれぞれのリアリズムを感じるのは視覚がつくりだす奥深いイメージの凄さだろう。人は「眼を疑う」とよく言うが、「自分の眼を信じる」とはあまり言わない・・・。
自然が自然として目の前にあり美しく、それを描いた絵が絵として美しくあることとは、どうやら同じ感覚にあるのではなかろうかと思った。ただ、自然と絵とはまったく異なって人の視覚が受け入れる感覚なのだが。そう、これも当たり前のことなのだ、しかしこの当たり前のことを疎かにしていた自分にハッとした。
どうしてか、近頃ものが今までよりも妙に良く視える(現在の近視、乱視、老眼とは別)ようになった気分がする。自分の眼を少しは信じられるようになったということだろうか・・。
この「レースを編む女」の本物は観た事が無い。ますます観たくなったけれどルーブルまでは到底無理である。でも、ありがたいことに技術が進歩した現代、写真機が写した絵の高精密度印刷の複製は模写していると、不思議にある瞬間瞬間の一時だが本物を観て描いているような空機が起こる。これも視覚の妙である。
そういえば、天才画家のダリもフェルメールに傾倒し中でもこの「レースを編む女」の絵が好きで模写などしていたらしいが、凡人でないのは、この絵を視ながら模写している画面にはサイの角が現われる。この天才の偏執狂的表現に恐れ入る。
若いころに買った「天才の日記」サルバドール・ダリ著を最近読み返してみたが、彼は狂人なのではなく優れて頭の良い天才を演じる偏宗教的天才画家だという思いがした。(宗教的というのは彼は天使の存在を本当に信じていると思ったからだ、きっと幽霊が視えた人だったのだろう・・・)




水墨によるフェルメールの模写

由三蔵 画

7日目

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2016年9月27日火曜日

フェルメールの水墨模写

身体はわたしの入れものだと或る女性小説家が云っていた。
なかなか文学的な表現である。その入れものが無くなってしまっても自分は無くならないということにもなる。それは単に入れものが無くなっただけで自分は別に在るということだろうか・・・。
きっと、別に在るのだろう。それがなんなのか科学では証明できないことだとして、わたしもそのように考える。
ただ、例えば現実には歯が痛いと云った時にその痛みは身体だけではなく感じるのは自分である。自己の感覚は第三者には理解されない、その痛みが解るのは自分だけだ。たとえ医者にもその痛み自体は解らない。そうすると身体は自分自身そのものでもある。その痛みを、これは身体の痛みだから自分とは関係ないとはいかない、その痛みに耐える自分がいる。耐えがたい痛みの身体を自分から切り離そうと思考したところで痛みは消える訳ではない。
耐えがたい痛みを消すには麻薬のようなものを使うか身体から切り離すしかないとなれば、あるいは人は自ら死を選ぶであろうか・・・。
まあそれは極端なことであるが、もしもその痛みを解消できる方法があるなら、たとえ薬だろうと宗教だろうと藁をも掴むようにすがるのだろうか・・。実はそういう事ではなく、もしかしたら身体は麻酔状態でも痛みを感じているのではなかろうかと、そんな時に自分はどこへ行っているのだろう。
しかし、そうなると身体と自分との関係はどうなるのだろう。まるで、身体とは別に自分は勝手に夢の中へでも隠れてしまっているようだ。
瞑想や悟り、あるいはヨガなどのトランス状態はいたって非日常の世界で普通の生活から一歩離れている。
やはり現実は身体と自分は一体であるという志向が基本にあってのうえでの、芸術や一般哲学や言語ゲームでは身体はわたしの入れものだという思考の上書き、あるいは重ね塗りが起こってくるように思う。
兎に角、身体は重要である。耐えられなく痛いのは嫌であるし、身体的な苦痛の究極は死であろう。(まあ、これも非日常の場にあっては痛みに耐えつつ大切なものを守るかもしれないが・・)
身体が入れものであるとすると、身体が無くなった時に自分はどこえいってしまうのだろうと考える・・・解らないが、きっと別のどこかにあるのだろ。それとも、やはり同時に自分も無くなるのだろうか。
見るという視覚でも実は元に身体の触覚性がなければ見た観るという感覚も発起しない。(大森荘蔵の哲学を読んで・・)意味を無くした言葉のように存在があやふやになってしまう。触覚といえば、まず手指、それから唇舌などの皮膚感覚を想像する。触覚のあらゆる経験は見るということを深くすることを最近になって考えるようになった・・・・・・。今更ながらのフェルメールの模写に学ぶところ多し!
身体が自分の入れものなどという表現などは、どうも真の存在の何かをあやふやに誤魔化しているように聞こえてくる。しかし、それが指し示す妙があるなら言葉が入れ替わるのだが・・・。




3日目

墨によるモノトーンでの模写・・・補色関係の色とか
下描きは当たりのみで忠実に模写など出来るはずなど無いけれど
兎に角、此処まで描いてきた・・。





 

2016年9月24日土曜日

無能人

優れた能力をもった人と比べてみた場合に、その能力が無い人を無能の人という。
そこで、思ったのは「その」のことなのだ。そのが無ければ能力が何なのか分からない。
まったくの無能の人はいないわけで、たとえ寝たきり老人だろうが生まれたばかりの赤ちゃんだろうが何かしらの能力をもっている。
つまりは「その何かしら」の能力に優れた人がいるというだけであろう。だが、一般の組織社会ではその優れた人がリーダとなって組織が働いているが、その能力の無い者は排除されるか、組織の底辺のあたりで働かざるを得ない。
また、現代社会のように派遣社員だとかパート・アルバイト人は、また組織の中の人と少しずれていて適度の能力さえあれば報酬は少ないが組織の歯車の一つとして組み込まれ、働ける。(しかしそのような職場にはリーダが居ない所が多い・・まかなえればそれで良しとする無責任である)その助っ人的な人たちの中には組織人と同等あるいはそれ以上の能力が有る者もいるのが面白い。
有能なリーダの中には無能な輩もあり、自分が実は無能だと云う事に気がつかない可哀そうな人も存在するけれど、そのまた上のリーダが同じであれば、その組織はいずれ消滅するであろう。が、それぞれが定年になるまでの組織の存在くらいにしか考えていないので、より良くしたいのは家庭であって自分が世界という社会の中で働いている組織では無いと思っているから、どうしてもその能力を傘にして凌ぐほかないのであろう。
兎に角「その」が重要での有能・無能でしかないということだ。
本当に有能な人は、おそらく自分自身が本来は無能だという自覚をもって組織の中で演技出来る人ではないかと、なぜなら能力なんってモノは自分で決める事でも無し、自然界においてはそのような能力の物差しは何処にも無いのである。
人間はたかだか「考えて仕事が出来る」それだけだろう・・・。
「無常」とか「無意識」とか、無能もそうだけれど、「無」とかあるいは「不」とか「非」とか付けられる言葉が若いころからどうしてか妙に意識の一部にへばりついているのである。




上記の写真は先月、山梨県の昇仙峡へ行った時に撮影したものです。
そういえば、一昔前に「無能の人」という映画がありました。
つげ義春の漫画が原作で、河原で拾った石を売る無能な男の話です。
昇仙峡に行ったのは初めてで、観光写真などで観た感じとは少し違い
わたしが驚いたのは眼前に観た巨大な石でした、いや岩と云った方がいいかな・・
ここでは石を売る店が沢山ありました、しかしそれは水晶ですから
とうぜん映画「無能の人」とはかけ離れた人たちでした。

河原にある石を砕いて拡大し、その写真をくりぬいて合成すると上記の
現代美術のような表現になりそうです。
無能な石と有能な石の違い?





 

2016年9月10日土曜日

鍛錬

フェルメールの絵画、「レースを編む女」(24・5×21㎝)の図版を元に水墨で模写を始めた。

それを観ていると・・

純粋に目が喜ぶということ、それを描くことは同時に眼の鍛錬となる。

その先に水墨の可能性(抽象的技法)が見えてくるような気がしている。



色紙サイズの画仙紙に原寸大で描きはじめました。

模写というのは実際の描かれているモノがどういうものか
分からず想像で描くのですが、このフェルメールの絵が
なぜ私の眼を喜ばすのかが見えてくるようです。



 



2016年9月4日日曜日

空機



よく「くーきを読めない人」などと言われる。その場の雰囲気をつかめない、相手のことを察してあげられないなどといったことだろうか、あまり使ったことがないが、おそらく良い言葉だと思っていないからだろう。ただ、一般社会にそのような言葉が現われたことには一目置いている。(そういう意味ではわたし自身も空気を読めない人間だと思いたい)
おそらく漢字で書けば「空気」だと思うが、実際は何もだれも表現していない、なにげなくその場がつくられている状態であることからすると、本来は空の機(はたらき)ということだと思った。しかし、実はその「空気を読めない人」というのは本人が空である処にいる為に理解できないのではないかとも。そういう空気を読めない人がいることは兎に角迷惑だということである。
では空気が読める人はどうだろう。自分が自分であることに気がつかない、また自分とは何かとか考えた事などなく、その「場」の中に留まる普通の人たちは自分らがその場の雰囲気をつくっていると思っている。が、それは共同幻想という安心したいという感覚から起こる錯覚ではなかろうか。
そして、そんな空気を読めない少数の人は、こんな世界とは「おさらばだ!」といって簡単勝手にこの世を捨ててしまったりすることもある。そう、自殺するのである。それは狂気でも、うつ病でもない当たり前の空の人間の行動なのである。
本来、自分が欲する「空機」であれば、その場の雰囲気を読めない人がいてもその場から排除されることはないと思うのだが、なかなか社会というのは生きずらく難しい。だからといってまだ逃げ出すわけにはいかない。

「人ノ人タル人ハ、人ヲ人トス。」「人ノ人タラザル人ハ、人ヲ人トセズ。」という言葉が江戸時代の教育勅語にあるらしいが、
この言葉を何度も読んでいるうちに「差別」ということを考えてしまった。いったい人とは何をもって人とするのだろうか、やはり心というものだろうか・・・。自分には心が自分の中に在るとは思えなく、逆に外に現われるのが心だと。そう感じる今日この頃である。
まあ、空気を読むという事自体が実は至って難しいことを考えれば、そうやすやすと言葉には出来ないものだと思う。 (「空機」とは自分がこうあらねばと、創作した言葉です)

いつもブログを書いた後に思うのは、言いきれていない。当たり前だが、そういうものだろうと思うしかない。
重ね描き。 がいつか真理のようなものに近付ければということを思っていることにしておいてください。

2016年9月2日金曜日

眼の欲望

どこのだれがブログを訪問したのか、ありがとう。「リアリズムの原点」がアクセス・トップ10に入ってきた。ちょっと恥ずかしい昔のコメントだがスパーリアリズムという写真に挑戦しているような(だけではないにしろ)・・・には全く今はどうでもよく、自分にとって大切なのは紙の上に墨で描くという行為そのものである。

「見えるということ」それは目を開けて見ることと目を閉じて見えることだが、片方は眼球というレンズを通じ見、もう片方は眼球は何かしらを見ているのだが、瞼で閉じられているため外を見ることが出来ないけれど見えるモノがあるということだ。いい例が夢であるが、たまに瞼を開けていても夢のような感覚で見える物事もある。また何かに極度に集中している時のことを考えると実は何も見ていなかったような感覚であったことに思い当たる。
夢が現実か、現実が夢かなどといった老荘思想の言葉も、夢も現実で現実は夢などではなく夢が見えるということだ。
お化けを見たことの無い自分だが、夢の中で見ているのはお化けである。お化けとコミュニケーションなど出来るわけがない。お化けが見えるという人のことを疑うことは馬鹿げた話で、それよりお化けと会って話をしたとかいうのは単なる妄想か作り話ではないかと思う。自分の場合は怖がりである為、夢の中で恐ろしい化け物が出てくるとどうしてか意識が働いて夢を覚ますようしむけるようだ。だから、たとえ現実でお化けが見えたとしても夢にしてしまおうと無意識に精神作用が起こるのかもしれない。
しかし、近頃ようやくお化けが少し怖くなくなってきて、現実にお化けを見たいという思いがある。
ポケモンGO!(やったことがないので詳しくは知らない)ではないけれど、お化け(怪物)探しに夢中になっている人々(特に子供たち)には、殺伐とした合理的現代社会では、日常生活において、お化けすら出会えない反動に欲望の輪がかけられているようにみえる。それこそ現実の大衆の一部である純粋な精神を動かす恐ろしいビジネスじゃないかと感じたが・・・社会のルールを決める道徳や理性の境目はどこにあるのだろうか。
人っ子一人いない森の暗い闇の中に迷った時の恐怖を思い起こせば、ちょっとした曲がった小枝や石ころも妖怪に見えること。またそれとは逆の花園のような場面では天使が現われたりする。それは、科学的にただの木の枝や昆虫であっても、その人にとってそこに見えるのはお化けや、天使そのものだろう。
そして「美」も同じように現実にそれが見えるのではなく、見えるものに美を感じる心があるということのように思う。
ただ、その美を感じる心の鮮度はだれにも絶対に保証できない悲しさがある。


2016年8月27日土曜日

画工 杉浦日向子

この呼び名はおそらく江戸時代に絵描き一般のそこいら界隈にいるような、絵師などとも呼べない、技術だけの「でくのぼう絵描き」を指していたような気がする。
明治二十二年九月十四日に二十五歳で亡くなった風景画家がいる。その名は井上安治。その絵師(画工)に思いをよせた漫画家がいる。
今は亡き杉浦日向子である。彼女は存命漫画家時代に肩書を「画工」とつけていた。おそらく、井上安治の面影から付けたのだろうと、杉浦日向子全集・第二巻に入っている「YASUJI東京」を読んで思った。
・・・安治は目玉と手だけだ。思い入れが無い。「意味」の介入を拒んでいるいるかのようだ。(影5/12)で語っている。
久しぶりに読む杉浦日向子漫画だが、どうしてこんなに透明で初々しい感性の漫画を描く事が出来たのだろうと思った時に、自分がこの人の作品がどうしてこんなに好きなのかが分かったような気がする。決して漫画の絵の技術が優れている訳じゃないし、物語が面白い訳でもないが、このような漫画が描ける人はもう二度と現われないだろうと思うくらいの、それはまるで優れて味のある人形芝居でも観ているような表現の漫画である。
何かで読んだ記憶だが・・・わたしのような漫画を描いていると、手間暇ばかりかかってとても経済と折り合いがつかないから漫画家はやめた。といったようなことを書いていたと思う。しかし、そんな生きている間に原稿料と折り合いのつかない手間暇かけた彼女の作品も、そのいくつかはおそらく漫画芸術の域までいって歴史に刻まれることになるだろう。

絵に思い入れや心などといったものは案外どうでもよく、ほんと!目玉と手だけでいいのだろう・・・それは触覚と視覚との統合、あるいはその行為の繰り返しの積み重ねなのかもしれない。

初めて自分が杉浦日向子の漫画に出会ったのは今から三十年前くらい。初期の作品集「ゑひもせす」(酔いもせず、とかいう言葉の意味だとも・・彼女が、お酒と蕎麦が大好きという事がまた一段と自分の身近に共感を覚える)という1983年初版の本だったが、兎に角、そこにはすでに天才が現われている。昨年、アニメ映画にもなった「百日紅」や「百物語」といった後期の傑作に繋がっており、日常にお化けが観えたという彼女。その作品のリアルさはとうてい真似できるものではない。
普通の漫画しか読んだことの無い人、また漫画が好きでないという人にも味わってもらいたいと思う。その絵(はじめはオリジナルというより既に使われている様々な漫画家の絵のぎこちない真似だが・・)の密度の濃さとセリフとがほぼ同時にイメージをつくりだす妙な感覚は漫画というジャンルを飛び超えていくにちがいない。

2016年8月24日水曜日

盆が過ぎ台風が過ぎ、涼しさが増してくる。
子供のころから味わっている夏の醍醐味である。
しかし、春が過ぎてもモノ悲しさはないけれど、夏が過ぎると妙な寂しさがある。
その寂しさが案外自分は好きなのかもしれない。

偶然なのかもしれないが、いままで夏が誕生日の女(ひと)になぜか多く恋をしている。
今の家内も八月二十一日が誕生日なのだが、どうやら夏生まれの女性は何かカラッとした心地悪いものと嫌味をもった性格と優れた臭覚の持ち主であるようだ。だからといってそんな人たちを分析しようとは思わない。たまたまの偶然でいいのだ。

ただ、最近思うのは人の「心」というどこにも根拠が無いのに平然とはばをきかせていることに疑問が生じていることだ。
人を人として決めている最大の原因がそこにあることは実は誤解あるいは錯覚なのではないかと、それは自分の外にある世界、その世界に包まれた中で自分がつくりだしている感覚のことであって、実は心とは空っぽの存在のように思われる。つまり、そのような心の器や箱のようなものは無くてもいいというか、そのほうが見えてくるリアリズムに触れられるような気がしている。しかし、そう簡単にはいきそうもない自分の根強い心という植えつけられた概念を剥がしていくことは・・・。

兎に角、日常が写しだす経験の中でしか得られない認識だろう。
確かなのは感覚とか情念とか感じるのは自分だが、すべて外から入ってくるものがあってのことである。
涼がわたしに絵筆を握らせるのも・・・心の中のことではないのではないかと。



2016年8月20日土曜日

笑う判断力批判

芸術作品の耐久性に拘ることに意味の重要性あるいは価値をもってくる作家の思考には、ただの石ころとダイヤモンドとの価値の違いといったことに似た思考の感覚があることは、芸術作品を心が物質であるように捉えた、行き過ぎた作家の「おごり」以外のなにものでもないと思うのである。
生き物は必ずいずれ早いか遅いか死ぬのである。死ぬ前に冷凍保存した肉体を何世紀か後に甦らせるとか、核シェルターで生き延びるとか、何か永遠性みたいなものに憧れる気持ち自体がいやらしく思えるのだが、生物の肉体も含め物質という価値に普遍的なものを求めるのはどうしてなのかといった疑問だけが浮かび上がってくる。そんなことなら死後の世界があるかどうか解らないけれど、そんな魂の存在を妄想する方がましだろう。
物質にも心の価値をもってくるとすれば、疑いつつ認め、認めつつ疑うこと、心の証明はそれ以外にないのではなかろうか。
作家が作品のマテリアルにどのようにこだわろうがどうでもいいけれど、こうあらねばならないとか、出来もしない清貧が美徳のごとくに自己の作品に責任をもてなどと間違っても他者に云わないことだ。
「理念」そのものが真の実在に至るという、恐ろしい言葉があるが、その言葉をどのようにとらえ考えるかが問題となるだろう。
自分はけして間違ってはいないなどという信念などは、理念とは程遠い・・。
何が残ろうが何が無くなろうが、決めることが出来るのは人間たちだけではないことを忘れてはいけないだろう。
いまさらながら、紀元前の哲学者の言葉に意志の判断に向かう道筋を再確認する。
「汝自身を知れ」・「美は美以前にある」・・・・ソクラテス・プラトンだが、いまだ色あせず現代の哲学の中にある。

テレビを見ると、その画面にタレントが田舎の町を訪問しそこの住民にちやほらされていた。「本物に会えるなんて夢いたい」だとか言われていたが「テレビ」だけの有名人であること、テレビを見ない人には知らないただの人である。何が優れているとか魅力があるとか全てが「テレビ」が決めたことに視聴者は大小あるが左右される。そして、子供たちは将来有名人に成りたい夢を見るのである。
子供たちに夢や希望を与えるだとか、皆さんに恥ずかしくない行動を取らねばいけないだとか、美辞麗句がとびかう「テレビ」だが、その裏側で舌を出して視聴者を馬鹿にしている姿は見たくないものである。
そういえば近頃、プロ野球中継が放送されなくなったが何故だろう・・・・・。
まあ、曖昧な価値基準の数値を追いかけるテレビとはそんなものだが、確かに真面目な番組もあるとは思うが面白くないかもしれない。
今夜、食事中にバラエティー番組を観ていて気分が良くなかったので、ちょっと「おごり批判」をしたくなった次第である。

・・・しかし、他者批判とはつまらないものだ。

やはり、自分自身の問題を語ろう。
どうしてこんなに見たモノの再現が気持ちの良いと感じられるか?という過去の名画に出会った時の自分の憧れと芸術観である。それは手で描くということの絵筆に潜む描写の不思議の実感に近づきたいといものだが、言うは易し行うはがたしである。
その自分が掴んだ妙なる美をなんとかカタチにして残したい・・いや、そんなことじゃないだろう。
ただやるべきことが、そこにあって、それをやること。それがたまたま描くことだった。
渡された何らかの大切な命のバトンを掴んで次の命に伝えることができればと、この命だけでは見えない・・・・・透明なゴールを目指す!(中島みゆきの詞をちょっと借りて・・)

今、リオ・オリンピックが盛況である。
その昔、日本のメダリストのマラソン選手が走ることに疲れて自殺した。
だから、どうのこうのではないが、そんな命のバットンもあるのだと記憶の片隅から現われた。



2016年8月17日水曜日

お盆

現在、老人介護施設で生活してもらっている母、94歳になるがボケてはいないが一人で生活できる身体ではない。
先日、月に一度の眼科への診察に連れて行った時のことだ。
お盆の事をやけに気にしているようだったが、「仏さま、お鐘楼までは出来なかったけれど、お盆セットを買ってお供え物もしてきたよ」と言ったら少し安心したようだった。
が、思いきれない母は「わたしに休みをとらせてくれないか」と言ってきた。休み?とはなんだろうと、仕事もしていないし生活はすべてまかなってもらっているではないか・・・。
わたしは、つい簡単に毎日休んでいるようなものだと解釈し、鼻で笑ってしまったことを後悔いている。
実は母にとって介護施設で管理され生活していることが、現在の自分の仕事だと思っているのではないかと、さまざまな息苦しさの中から自分の存在をつくりだそうと考えているのではと、そして生きること自体が母にとって仕事なのだろうと思った時に目頭が熱くなった。
なにもしてあげられない私自身ははがゆいものだ・・・・・しかし本当は何もかも、自分の事も私の事も、母は分かっているのではなかろうかと感じた。

では、自分の仕事とは何だろうと思った。蓄えのまったく無い自分にとってアルバイトで生活費を稼ぎだすのもその一つだが、生きることが仕事だとすれば、その中心をなすのは、やはり一時も脳裏を離れない美術の世界も含め、そのすべての今を生きている世界の中心に精魂を込めていくことこそ仕事だろうと思った。
この暑さで絵筆を持つ手が乾き始めているが、盆過ぎて涼しさがやってきた。やはり自然はわたしの鏡だろうか・・・。
被写体の準備(下図にする資料)はまだまだだが、「女の習作」ではなく「女」という題の作品をめざす。また、植物も描きたいという思いも生まれてきている。
ここ何日か暇を見つけて、面相筆も新たに疲れない握りやすいグリップをつくったり、オリジナルの毛筆もつくってみた。

兎に角、使い心地が楽しみだ。


「ものごとはわれわれが認識するようにある」・・・(純粋理性批判より) カント


2016年8月7日日曜日

流れとよどみ

これは日本の哲学者、大森荘蔵氏の著書のタイトルである。
自分のように学問を積みかねてこなかった人間には哲学を日常に引きずり込んでの、一見解りすそうなその文章でもかなり難解であるが、自分自身で考えなければ得るものはないに等しいということを再び学んだようだ。
話は本の内容ではないが、「流れとよどみ」という言葉を今現在の自分の在り方としてあてはめ考えてみた。すると、確かに「よどみ」がでてきたような気がして、濁った酸欠状態の水のイメージが今の自己照らし出しているともいえるし、また川の流れの途中に岩で囲まれた処にとどまっている静かな状況をつくりだしているのも「よどみ」ともいえるだろう。どちらにしても清く流れているような状態でないこと確かだ。
兎に角、この本に出会ったことは、見るということ、思いだすこと、世界とのつながり、自分と自然と命の関係、そして描くという行為に柔らかな衝撃を与えた。日常語で云えば、いままで逢ったことのない女性の中に魅力を感じるのに似ている。
いまの今までの思考の基本構造の再構築というか変化をもたらしているものがある。だからといって、自分の行動、生活が大きく変化するようなことではないけれど、何か漠然と正しい道筋?が見えてきたような気になってくる。
二十一章まである各章を何度も繰り返して読んでいる為に、まだ十一章で止まっている。

・・・酸欠状態は好ましくないけれど、流れの途中でたまった水が流れだすのは少し涼しくなった時期からだろうか・・・。



一水四見

水墨・和紙

由三蔵 画



2015年 作品

思えば・・・この作品も「流れとよどみ」を
暗示しているような気もしてくる。




 

2016年8月2日火曜日

ささやかなつながり

自分のような者が芸術を通じて出会い語り合える人たちがいることの幸せを感じた日であった。
先日の展覧会で出会った方の「お屋敷?」へピアノ調律師の友人と訪問した。そこには、やはり展覧会でその時に同席した日本画家の先生も来ていた。
このような縁でもなければ訪問もかなわないであろう、1000坪の土地に坪500万の200坪の邸宅である。離れには茶室もあるという贅沢な純和風建築だ。
だから、どうだということでもない。どうだ凄いだろ!というのはそこにある美術品の数々を拝見させてもらっているときに説明するご主人の自慢である。しかし、何百万もする李朝の壺だの初代柿右衛門の云々だのを直に手にとって愛でることが出来たのは幸せの限りであった。それと、日本画の先生の水墨画の作品が趣味良く各部屋に展示されていた。
ご主人と自分が語り合いながら観ていると先生も来て、水墨の話になった。わたしは水墨画の何が分かっているわけでもなく、ただ自分の思うがままを語ったのだが、先生は、そうだそうだとうなずきながら話を聞いてくださった。現代には本当に水墨が分かる人が少ない、水墨は私を裏切らない。つまり自由がそこにあるというようなことを言っていたと思う。言葉を呑みこむように話す83歳の画家に初めて身近に本物を見た気がした。
調律師の友人は奥様に案内され、離れに置いてある調律不能と言われているリストが愛用していたというピアノを観に行ったままである。おおよそ二時間があっという間に過ぎ、みなさんお茶にしませんかということで居間でフルーツやお菓子などごちそうに成りながら、さらに一時間。なぜか会話の中心がこの度の展覧会での奇妙な出会いのことであった。
きっかけは、展覧会でわたしの水墨にここのご主人が興味を持ったことに始まった。たまたまその日に自分が展覧会場にいたことから繋がったことである。
日本画の先生が「由さんとこのように出会え話が出来て本当によかった、このような縁はめったにない」と、こちらこそ、そう思っていたからなんだか照れ恥ずかしく、なんとも返す言葉もなく頭を深く下げた。
10月にパサディナ美術館で個展を予定しているというので楽しみである。
最後に先生が「あなたは今のような絵が描けるようになって幸せだね・・」とちょっと気になる妙なことを言われた。




2016年7月31日日曜日

過去は消えず

昨日のことも、一週間一か月前のことも、十年前もさらにその前のことを思いだすのが記憶というものだろう。
しかし記憶とは一体なんだろうか、単に脳に蓄積されている事を、突然にあるいは意識的に思い起こすことだろうか・・・。
最近自分が思うのは、単に身体の脳の働きだけではない何かが過去の記憶の中から「それら」を立ち上がらせているのではないかと・・・。

おおよそ30年くらい前のことである。東京北千住のとあるバーで隣にいた中年男の話を時々思い出す。
「この話を今なぜあなたにお話ししたくなったのかわからないけれどね。恋の記憶とでもいうのかな。わたしが二十代半ば結婚する前のことで、ある女性に唐突に恋してしまった。しかし、その女性には思う人がいて、その思う人には家族があって、でもその思いは変えることが出来ないと。わたしの恋の告白は破れたが友達としてならと言われた。彼女とは時々会って酒呑んだり遊びに行ったりしていたが、どこか冷めたところがあったのは彼女が思う人に心が行っていたからだろう。
そして時は流れ、わたしにも好きな人が出来て結婚した。仕事は忙しく家に帰る事もままならぬ状況でたびたび仕事場に寝袋持ち込んでいたようなバブルの頃である。疲れ切った、そんな夢枕に、その彼女が現われた、そしてなぜか電話番号の数字が現われてきた。不思議なことだが記憶ではないような思いからなのか、その時はもう十年くらいたっていたのだが、わたしはその電話番号を打った。深夜のことだ。その受話器の向こうに出た声は、眠そうな彼女のけだるい声だったのだ。
懐かしさとお互いの今在る状況など長い会話が時間を超えていくようだった。そして会う日取りを約束をした。・・・・
どう思うかね、彼女とはプラトニックな関係だったんだよ。実際こんな恋もあるのだな。この話はさらにそれから十年先に及んでいくのだ。

つづきは、いずれまたね・・・・はぁ」

自己の過去は消すことが出来ない、また他者の過去もそうであろう。しかし他者の過去は他者の経験の中でしかなく、自己の過去もまた同じである。ただ、その他者の言葉の声は自分の過去の経験に沿って現実となって立ち現われる。
記憶とは、過去のことが脳に映し出されるということだけではなく、たとえば亡くなった人などのことも現実に目の前に現れるがごとくリアルに思い出される。身体の脳だけの働きだけでは出来えないことだと思う。(もちろん、それをつかさどる器官の脳が壊れたら無理であろうが・・)それが何なのか分からないけれど確かにそのような妙な感覚が現われる事を確信し、人間の妙に今魅かれているしだいである。