完成予想図を描くというのと絵画を描くというのとは水と油のほどにあるだろう。 しかし、そこにある意識とはどちらにしろ「ある/予想図」だと思った。そして大切なのはモノ、ではなくハタラキにあると。物語ではなく、その中にある言葉(感覚)のハタラキ(身体と世界)・・・リアリティーそれはやはり現象学的問題のようだ。
モチーフ ある現象学的予想図 ・ |
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり ・・・・・道元 ・・・・・ ようこそ!由三蔵の世界へ。 下に表示されている画像は、過去ひと月のアクセス・トップ10のブログです。(ブログ掲載記事の画像はクリックすると拡大されます)
1908年生まれ。フランスの哲学者。
わたしはセザンヌに興味があり何冊かの書物を読んでいる時々に出てきた哲学者の名前であって著書自体を読むのは初めてでした。その「メルロ=ポンティ コレクション」を読んでいるのですが、その項目のなかでー絡み合いーキアムス(見えるものと見えないもの)から、というのがプルースト批判だったのです。プルーストの芸術の方法に「透けて見えるようにやる・・」という言葉があるのですが、その言葉を壁に貼ってほぼ毎日のように思索してきました。その事実を哲学的に語っている・・・何か今までにない感覚に鳥肌が立つような思いで何度か読んでいるのですが、経験が伴わないためか、まだまだ理解に苦しんでいます。しかし、おそらく近いうちにその兆しが、墨水画を描くことで見えてくるのではないかと信じています。身体(からだ)で観ること、その対象から見られているということ、、、とはどういうことか?なのです。
新しいチーフに取り組み始めました。水墨で画を描くようになってまだ十年ちょっとですが技術的なことも含め日々新たな動機が生まれてきます。大きく分けると現在探求してるのは第三期というところでしょうか。新しさといってもファッションのようなものではなく、むしろ今あるもの、知り尽くしたものと思っているようなものの中に、、、偶然や奇妙や失われた時間とがあって、そこから立ち現れてくる「新しさ」のようです。さて今回のブログではその第一期に当たる作品の一部をお見せする次第です。
このころは正直、墨とか和紙とかが見えてこない ただただ、水墨でデッサンしていたような気もしますが それなりに表現としては面白いと、今見ると感じています。 このころ描いた風景画はほとんど手元にはなく 値がが安かったせいか買われていきました。 ありがたいことで、それによってか、あってか、 水墨を描く大きな励みになりました。 ・ |