2017年2月12日日曜日

屁理屈のような哲学だが

過去は何処へいったのか・・・今とは何なんだろう。

「時間を哲学する」という中島義道氏の著書を読み終えたばかりで・・

五分前に想起した自分の過去。小学生の頃の町内の相撲大会の事を思い出された。
いままで、なぜか何度か思い出される過去の情景だが、さらに克明に立ち現われてきた。
それは、連なる提灯が近所の公園にぶら下がり盆踊りが行われていたから夏の祭りのことだろう。
相撲大会がどのようなものであったかなどは思い出さないけれど、は~ちゃんと呼ばれていた体格の優れた少年を「うっちゃり」という相撲の技でやっつけた場面の心地が好い記憶である。そして、近所の顔役だった自電車屋のオヤジに頭をなぜられたことまで、過去の思い出となって想起された。
だが、その思い出された、そのたった今とは、もしかして五分前につくりあげた自分の過去のフィクションの物語なのかもしれないといことを、時間の哲学は問いかけてくる。
そして、実は今というのは無く、0.0001秒前の事も過去である。その過去と未来との流れの中で思考している時間を今と云っているだけで、日常使っている言葉の「今、パソコンでブログを書いている」たった今も実は過去のことである。
しかし、そうして考えてみると過去も未来も実体が無いという概念に結びつくのだ。実感として捉えるには簡単ではないが、ふとした瞬間にス~と感じるそれかもしれない。
仏教でいうところの無常のようでもある。

過去を思い起こすということは、夢の映像とかの視覚的なことではなく、それらを超越した何かのつらなりが、映像、あるいは画像(のような)モノをつくりだしている・・・・。
とすればリアリズムという現時点の視覚や触感や知覚ということは過去がつくりあげているということになるのか・・この本の最後ころに出てくる、古代哲学者のアリストテレスの「今は見えない」という屁理屈の証明がとっても新鮮に思えた・・^^)

今ある自己を常に越えていく深層の次元で、瞬間瞬間に立ち現われてくる「何」かは、見えないけれど確かに有る。
生きているという根拠を成しているのはそういうものだろうかと。


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