2020年2月28日金曜日

数十秒間の美

今日、アトリエから車で帰宅する途中に信号機で止まっていると二人の小学生が横断歩道を渡ってきた一人は駆け足で渡り切ってしまったが、もう一人の女の子はずっと私の顔を見ながら横断歩道を歩いている、その顔が妙に気になり私もその顔を見ている、渡り切ってから、車の横まで来ると立ち止まって少し微笑んだかと思うと直立姿勢で両手を膝のあたりに持ってきて深々とお辞儀をした。
そしてこちらを少し振り向きながら歩き去った。
それから、私はその数十秒間の映像が脳裏から離れず、できれば鮮明な記憶として残したかった。
家に帰ってネットで「大段歩道を渡る小学生」と検索したらいくつかの画像があった。それらを元に記憶に重ね描きするようにしてイメージを定着できたような気がしている。
いつか画で生かしたいと思いました。

兎に角、小学生だったのだけれど、なにか日本の女性の美しさの原型を見たような、そんなふうに感嘆してしまったというお話です。つたない文ではではとてもこの知覚したものを伝えられませんが、この経験をブログに記録したかったのです。

2020年2月13日木曜日

導調

美がどのようなものであるか、言葉にすることはむずかしい。

けれど、いままで幾度もわたしの目の前に現れていることはたしかで、それは内心の苦しみを和らげ、信じることの何かへ導いてきた調べである。
そこから、いつもまた新たな探求が始まる。

そのモチーフ(導調)が立ち現れてきたら、できる限り精神を停止させる。
休むことのできない働き続ける身体は、なるべきように生る。


写実的墨水画を描くという方法論はそのようなものですが、現在活躍している若い驚異的リアリズム絵画の画家たちに同調できるとろもあるけれど(雑誌や画集を読んでの限りですが)描くという身体的な行為を語る人のないこと、時間をかけて調査、取材、絵画の歴史からとか、あるいは光学を語るのもいいけれど、日常のあたりまえの感覚を哲学することも重要ではないかと。
ここ数か月、描き続けたせいか、親指の付け根に痛みがるけれど、その痛みは誰にもわからない、、、、。という当たり前のことですかね。



墨水画  20号

 「まゆ」


顔をズームアップしました。
微妙な表情を表現することが難しかった、、。






2020年2月12日水曜日

初公募展、落選

初めて公募展に出品しました。
案の定、落選という結果になりました。でも、本当はもしかして審査員の中に私の描いているような水墨画に問題意識をもってくれる方がいればと若干の期待を抱いていたのですが、サイズの小さいことは大いに関係していたようですね(たまたま、驚いたことに私の先輩がこの運営事務局長だったのですね。ああ、知ってたら50号描いたのに、、、でもサイズだけの問題でもないでしょう)50号から20号とい中で私のは20号。(正直なところその距離では水墨の良さは分らないでしょう)公開審査ということで会場で見ていたのですが、約五メートルほど離れたところから四点づつ300点ほどの作品を見て一次審査をする、審査員は四人、審査委員長は体の具合が悪く欠席。(まあ、落選者の愚痴として書いています)
どうして、この年で公募展などにだしたのかは、一言ではいえない理由がありますが、ひとつの夢と思っていただければ良いかと、今思えば宝くじみたいなものでしょうかね(笑)
ただ、落選したからというわけではないのですが審査員4人の方の選ぶ作品を見ていて美的判断力の無さに幻滅しました、、、、、。あなた方、カントやベルクソンなど読みましたか?美学を探求したことありますか?と選考しているのを見ていて、そんな気がしました。
、、、、、はい愚痴はこの辺でやめときます。


出品した水墨の作品です。


墨水画 20号

麻紙



「まゆ」






2020年2月10日月曜日

わたしの墨水画

水墨の現在は偶然を生かすことに重点をおいているけれど、わたしのは少し異なっていて、偶然をおさえることによってリアリズムを探求し、そこから立ち現れ来る偶然の妙を味方にしたいと思うのだ。

不自由なことは、自由をあきらむる、なにかの表れだと思う。


絵画とは、その他の造形芸術がなし得るよりもはるかに深く理念の域に徹入し得るし、またこれらの理念に応じて直観の領域をいっそうし得るからである。
「判断力批判」カント(角川文庫)~より

2020年2月7日金曜日

震える心のアンテナ

「世界は終わろうとしている。まだ続いていくというただ一つの理由としては、世界は存在しているという理由しかない。この空の下に、この先一体、何をしようというのか。考えてみよ。物質的な存在は続くと仮定しても、そんなものが世界と呼べるか、歴史と呼べるのか。この世界が南米の共和国のような術策と道化を余儀なくされるとは言うまい。私達は、又、野蛮状態に還り、私達の文明の草だらけの廃墟を横切り、小銃片手に食を求める様になるともいうまい。そんなことは言わぬ。何故なら、こういう運命或いは冒険は、尚、原始時代の木霊、生き生きとしたあるエネルギーを予想するからだ。私達は新しい実例として、非常な道徳律の新しい犠牲者として、生活の条件と信じて来たものによって亡びるであろう。機械は、いよいよアメリカ化するであろうし、進歩は、私達のうちにある精神的な部分を、すっかり委縮させてしまうだろう。この実際の結果に比べれば、夢想家の、どんな血なまぐさい、瀆聖の、不自然な夢も問題ではない、ものを考える人に私は訴える、生命というものがあるなら、見せてほしい、と、宗教については、言うも無駄だし、その残りを捜してみる要もない、と私は思う。なぜかというと神を否定しようと肯定を祈る者だけが、汚らわしい奴となるというていたらくだからである。所有権は、長予権の廃止によって、実質的に消滅した。しかし、やがて、人間社会が、革命の正統な相続人と信じた人々から、その最後の持ち物まで復讐鬼のように、剥ぎ取ってしまう時が来るであろう。だが、まだこれは最大の悪ではない」―

この文章は、小林秀雄「近代絵画」のなかの「ピカソ」で引用されたボードレールの手記からです。
この後も少しつづくのですが、なぜ小林秀雄が「ピカソ」の論評で長々とボードレールのこの詩的な言葉を引用したのかー。わたしは、ピカソの絵を観て小林秀雄が知覚した一部であるとは思いますが、、、、、。何かを予言しているような気もします。

兎に角、読んでいて心が震えたので書き込んでしまいました。

2020年2月6日木曜日

近代絵画

絵画についての批判論は沢山あるけれど、面白く読めるような文章を書ける評論家はあまり多くはないような気もする。最近では芸術専門の人より文学者とか科学者とかが書いた文章の本が味があって面白いと思う。
小林秀雄「近代絵画」の中のセザンヌとピカソをまた読んで、前には感じたことがなかった精神的ではない肉体感覚のような、手触りを味わうことができた。
もう一人「気まぐれ美術館」というタイトルで芸術新潮に連載されていた洲之内徹という人も優れて個人主義的で面白い、特に無名に近い画家たちを発見して書いていて、近年にはいない批評家であると思った。

画家というのは絵について多くを語らないというのが通説のようだが、中にはダヴィンチの手記やゴッホのように沢山の手紙が残されています。確かにそれらを読むと何かわかったような気になりますが、しかし言葉の向こう側には作品があるわけで、それらをどのように知覚するかが私自身の問題であるという感じがします。