2017年1月30日月曜日

フェルメール模写 第二!

というわけで、フェルメールの模写の二番目は「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの女)」の顔の部分です。
なんといっても始めて本物を観たのが約30年前に東京の美術館に展示された時になります。
その時に買ったポスターが、東京から越してきてからずっと現在の賃貸マンションのリビングに額に入れて飾ってあります。
数年前に再びこの絵が日本にやって来た時も観に行ったのですが、それが自分が前に観た絵と違うような感じを受けました。
まさか、どちらかが偽物だとは思いませんが、兎に角どこか違っていました。(時を経た自分の感じ方の違いかとも思ったものですが・・)
その30年前のポスターとの大きな違いは、唇の右側に光の点が有ることと、真珠の下の方に輝く光の点が消えていることです。そして新しく観た絵はコントラストが強く、明暗のトーンも異なり、色の深みも浅く浮いたように妙に明るく感じました。保存の為に修正されたのではないかと思いましたがさだかではありません。現在のほとんどの画集の絵はそうなっています。
そんな訳で、模写をするのに現在の複製画か古い複製画にするか考えました。顔だけにしたのもこの絵の魅力の全ては、なんといっても、その視線と半開きの口と真珠の輝きだと思ったからです。
で、どちらが元の絵に近いのか、本物は?・・とかはどうでもよく、不自然な唇の横に在る輝きのある新しいのはやめて、結局30年前の複製ポスターを基に模写することにしたのです。つまり過去の記憶の印象の方を優先した模写ということです。
若干色あせたほぼ原寸大ポスターですが、新しい複製画よりも、はるかにこの少女の魅力が感じられるのはなぜでしょうか・・。そうなると単なる模写ではなくなり自ら水墨で描きおこすということになるようで、つまり自分だけの、フェルメールが描いた少女の絵を新たにモノトーンで描くということになります。(いかにも水墨画工にふさわしい仕事だと・・だからか妙に充実感があります^^)
話はずれますが、現代の絵描きさんは絵を観るということより描くということに重きを置いている方々が多いように、ふと思いました。それは美術の教育自体が絵描きの側に立って評論している、観る側の立場ではほとんど語られていなからでしょう。だからか、どうか、絵を観る人より描く人の方がより増している感じがしないでもありません。
現代美術のような誰にでもできる技術の作品が現れ、しまいには手作業を否定する作家などもいます。そのコンセプトの蘊蓄にこそアート性を見出させるような社会現象も起こっているようにも思います。(現代美術批判はきりがないし、もしや自分もそのはしくれなれば、お前の描いてるものは絵などは無い!といわれそうで、ああだこうだ今云うこともないでしょうね・・)

兎に角、正月の4日より色紙代の手漉き画仙紙に描き始めて・・・・・ここまできました。
あと、少しトーンのバランス具合を調整して終りにします。




フェルメール 「真珠の耳飾りの女」

水墨模写(色紙大)

由三蔵 画







 

2017年1月20日金曜日

わからないを知る

あなたがあなたのままでいられる相手とお付き合いできることは幸せなのかな?

わたしがわたしのままでいさせてくれるあなたが好き。
でも、わたし、変わりたいの。
あなたは優しいけれどわたしを変えてくれない。
相手を強引に変えようとする人は好きじゃないけれど、さりげなく叱って欲しい。
あなたの真理で。

と、わがままな人を想像してみたのですが、人は変わりたい半面、変わりたくない、変わるのが怖いといった二面性が有るみたいです。
美しくなりたいという欲望は特に女性の場合に多く、また変わりたいというのも女性の場合の方に天秤はかたむくでしょう。
そして、自ら変化できるチカラも男性は女性にはかなわない・・・。(ここで言っているのは男性が女性になったりすることとは違います)

すごーい!
かわいーい!
わかんなーい!
わたしに何でも言って!
あなたは不潔よ!
あなたには私が必要なの!
私を人間として見て!
私はあなたの何なの?
ほんとうの愛って何?
これは、日本の哲学者の中島義道氏の書いた「女が好きな10の言葉」という本の帯びに書かれていた言葉です。
うむ~と考えてみて、兎に角、男は云わないだろうなとは思いました。

なんの役に立つという本ではないけれど、面白そうなので買ってしまいました。

最近ちょっと興味を持ちだした思想家のサルトルとの繋がりがどこかにあるのかも・・。
というのは、サルトルの代表作「嘔吐」(若いころ読めなかった)を買いに本屋さん(ブックオフ)へ行った時に出会ってしまったからです。
・・・・・・自分もこの年になってでも、まだまだ変わりたいという欲望があるのかもしれません。もちろん形態などではなく、精神的なところですがね。
だからといって原始の過去の人間の霊的要素がたとえDNAで潜在されていても、それを意識の段階に導き出すことは簡単ではないでしょう。
・・・が、しかし、芸術にはその可能性があると信じているというか、特に最近そう思うようになってきました。
恐ろしく、わからない。と云う事を知ることは、もしかして素晴らしいことではないかという実感が、わたしに現在の様な画を描かせているような気すらします。

今年も早々に、水墨修練のつもりでフェルメールの模写を描きはじめました。







2017年1月15日日曜日

一篇の詩

戦争の女を描いた長編小説に勝るような、現代詩人による一偏の詩がある。
もしかして、美の世界にも表裏が、その因果偏界でひとつになって現われるのではないかと思われた。

「崖」

戦争の終わり。
サイパン島の崖の上から
つぎつぎに身を投げた女たち。

美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追い詰められて。

とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)

それがね
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。

石垣りん 詩集より

創造することが罪なのならば、人生は悲しみそのものであるようだ。
楽しい絶頂の時にあっても、人はこんなに幸せでいいのだろうかという不安がよぎる。
神など信じてはいないが、明日は初詣に行って・・・何か、祈るのだ。


2017年1月14日土曜日

遥かかなたにあるであろう「美」を一番近くに引き寄せいるのは詩かもしれない。
詩はだれもが日常使っている言葉で世界を表しているけれど、なかなか理解しがたい。哲学の言葉と比べると誰でもが読める。が、それを読む、味わえる人は数多くいない。つまり、一番有用性のない存在が詩であると云ってもいいだろう。一般人には絵画のように気安く好き嫌いを感じるところまで行きつかないからかもしれない。頭の中で哲学が働かないと詩の言葉は読む人の感覚に触れることすらないからだ。
だが、しかしそんな言葉が突然、心に触ってくることもある。普通の人が詩人に近くなる時とはそのような場面である。これは、絵画の場合にも当てはまる。
「詩的な世界を体感すること」という言葉を考えてみるとわかりやすい。詩的な世界とはどのようなものだろうと・・。
例えば、(有用性の有る?)宇多田ヒカルや中島みゆきの音楽(歌詞)は多くの人々に感動を与えるが、詩人の詩集の言葉だけ(音楽なしの)を読む人はほとんど少数なのはなぜだろうと考えれば、若干だが詩の難解さも少し和らいでくるのではないかと思う。(かなり、恣意的かもしれないけれど美の本質はそのあたりに隠れているような気がする)
また、理解されやすい絵画があるとすれば、その多数に理解される絵画とはいかに?
フェルメールの絵画はどうだろう。二世紀も後になって世界に認められ、印象派好きの日本に至っては五十年くらい前には一部の美術研究家しか認めなかったのに、ここ十数年の間でブームにまでなってきたのは何故だろう・・・。(しかし、さらに絵画になど興味の無い一般大衆など、今の自分のアルバイトの同僚とかはほとんどが知らないという現実である。たとえばその絵画を観ても、写真のようで凄いねと云うことくらいかもしれない・・)
人はどのような時、深く詩的な感覚の心が立ち上がってくるのだろう・・・。
自分に分かるのは、ほとんど言葉では答えられない感覚だけなのが歯痒く、その自分の感覚の経験の中で倫理的なことを年をとって学びはじめているといったところだろう。これは晩学の趣味にのめり込んだ人のように思っているが、不思議と過去の記憶が以前より増して呼び起こされている実感がある。
(絵描きは黙って絵だけ描いていなさい!・・・・と誰かに怒られそうだが、わたしはどうやら言葉が好きなようだ。だが、残念なことに多くの言葉は無意味で騒音のごとくである)
自分は音楽が好きだが、やはり詩人の書く言葉と音楽家の作詞の言葉を比べると、全てとは思わないけれど詩人の書く言葉との間には隔たりがあり何か違ったものを最近感じるのである。
歌もいいが、音楽はやはり言葉の無い方が格段に自由である。

兎に角、詩をそう簡単に論ずること自体がおかしいけれど、わたしの深夜のひとり言の葉・・・・いつか詩でも描ければと思う。


2017年1月10日火曜日

銀彩の水墨






今までの由三蔵の水墨作品の中から三点ほど選んで
部分拡大してみました。


 
西洋の絵画は重く厚く深く、東洋日本の絵画は軽く薄く深く。おおざっぱに云えばそんな気がします。
現在、自分が描いている墨の絵はほとんど厚みはなく、絵の具ではないので筆のタッチなどありません。しいていえば筆の速さとその扱い方ということでしょうか。しかし西洋のレンブラントなどのデッサンのようなインクによる筆使いには同じような感覚があります。どこにインクと墨の違いがあるのでしょうね・・。
その両方を使って描いた事がある方は分かるかもしれませんが、描かれた絵の雰囲気は近いのですが、描いている感覚はかなり異なっています。
墨とインクの優劣を云っている訳ではないのですが、その水墨のモノトーンの輝きには和紙と折り合った彩が有るのです。
兎に角、西洋の絵画、哲学、すべての芸術には東洋とは異なった凄いものが有ると思います。が、わたしはやはり日本人であるためか、薄く軽くそして深くを求めてしまうみたいです。(それも、なかなか困難なのですが・・なぜか心地よいのです)



2017年1月7日土曜日

つまらない話


わたしの視覚が捉える平面全てを或る意味「絵(画)」と云っても間違いではないように考えます。
写真も書も広告も、テレビに映し出される映像も、絵が動けば動画です。
立体的に見えているモノも視線がとらえているのは平面で、それを脳が立体に調理しているわけで、だから眼を閉じても、何かに遮られても何かしらが視るのでしょう。
そして、眼球自体はたとえ眠っている時ですら絶えず動いているのですから不思議です。
また、視えているのに視えていないということもあります。例えば歩いている時や車を運転している時など特に視えているものは限られるでしょう。さらに、映画やテレビの画面でも気がつかない視えていなかったなどと云います。写真や絵画などでも視える人には視えても、視えない人にはいつまでたっても感覚できないのはなぜでしょう。
そう、つまりモノを観るとは視覚だけではない感覚のハタラキによるものだということになります。
また、御先祖様の霊が見えたり、神が或る時現われたりするのは何も特別な宗教的なことではなく、ごくごくあたりまえの現象なのかもしれません。(わたしは見たことないですが)

さて、つまらない話のついでに・・。
今夜、1988年に買った季刊「銀花」を読んでいました。(なぜ、その雑誌のその巻を手にしたのかわからないのですが・・)
ほとんど無名に近い人達の言葉や絵や写真・・・・その頃見ていなかったものが観えてきてきたのです。心臓の鼓動が速くなっているのに気がつきました。
さらに、細井富貴子さんという「銀花」編集長の書いた文章に強く胸を打たれたのです。
偽物ばかりの今の世を思うと、それらの文章の中心は名の知れぬモノづくり達の話で、その隣近所の命の手触りがする本物の言葉を読むことができます。

「麻痺の身を電気仕掛けにして欲しい」
「おれにしか見えない犬の笑い顔」
「しらないですむこと耳が拾い過ぎ」

その文章の中にあった、とある地方の障害者の竹内さんという人の川柳です。
お金があれば、今の科学では人工知能から身体にマイクロチップを埋め込んだりコンピュータ制御の電気仕掛けで麻痺の身を働かせることが出来るでしょう。
しかし、なにかこの句の情感や今は廃刊になった「銀花」を思うと、わたしには現代の科学が向かく処が少し違うように思えるのですが・・・。

1985年、始めて季刊「銀花」に出会って、自分の生の方向を大きく左右したことは確かです。
それまでほとんど見ていたのに見えなかったことが見えてきたのですから・・・。
その年、感動のあまり始めて投稿した言葉が「銀花」の投稿欄に掲載されました。・・・・その礼状ハガキがなんと編集長自ら、細井富貴子さんの自筆のものでした。(ささやかな自慢したい思いでの一つになってしまいましたが・・)
そして、今また・・・「銀花」から授かったような言葉が脳裏に立ち上がった。それは水墨で「銀彩」を描くことにあると。
もう一度が無い、描き直しのきかない人生と、手直しのできない水墨画。
これは妙に出来すぎた安い幸せであるが、やってみなくてはまだわからない・・・。

最近こんな広告コピーを読みました。「愛は人を美しくさせる」それは間違ってはいないかもしれません、だから愛を買い求めようとする人たちが沢山いて経済が働いています。しかしそれは化粧品やエステ、サプリメントなどなどでは決してありません。
きっとそれは人の心に愛を立ち上がらせるようなものでしょう。

それはどのようなものでしょうか・・・?



2017年1月2日月曜日

画工初心

mizu no kesiki

水墨

由三蔵 画




わたしが描きたいのは、美そのものではない。

それは描く事ができない。

わたしは美を指し示す絵を描きたいのだ。





 

2017年1月1日日曜日

2017 24時のあなたへ




あなたが私の眼にとまった時から、その魅力が何か考えていた。
単に、美しいとか可愛いとか自分好みとかであるとか、ではない妙な思いで、それが最近になってさらに高まってきている。
もしかしてそれは自分の経験以前にある、あるいは経験の外にある「何か」ではないかという考えが生まれてきた。

いまだかつてない未知の美意識を経験してみたいという思いから、それを示す何かが描く事によって表現できるような気がした。

人は生まれてからの経験の中で生きているかのようだが、実は美しいと感じる心は生まれる以前から遺伝している感覚があって、それぞれ違った、他者とは関係の無い自分だけの美意識があるのではないかと、またそれと同時に全ての人に共通した普遍的な美意識がその根源によこたわっているのではと想像する。
しかし、多くの大人は自分の経験を主に中心に据えて生きているいるから、なかなかその美に気がつかないか、あるいは意識上にカタチをつくらないのかもしれない。
普通に美しいモノや人を見て美しいと感じる、その心のさらに遠い深いところにある「美」を指し示すのが芸術ではなかろうか・・・。おそらく、美自体を言葉で表すことはできないし、それは美自体に意味などないからだろう。しかし、美は命の源でもあり、人類が誕生した時から今現在にまで絶えず生み出されてきたものだろう。


あなたを描くことはわたしを描く事でもあり、その行為から生まれる絵は他者と共有することの「何か」に必ず繋がるものとなることを信じている。
しかし、この「経験以前」とは何だろうという考えは漠然と湯船に浸かってた時にフッと現れた言葉で、さらに積み重ねて思考しなければならない。けれど、哲学者でない自分は描く事でそれを見出しすことができればと願うだけだ。

兎に角、あなたが描きたい・・・。