2016年11月26日土曜日

青鬼娘

久しぶりの投稿になりますね。

おおよそ全ての美しいと思うもの、そのカタチはイビツであろう。純粋な視覚は見ているが、どうしてか人はそのイビツなモノを修正してから受け入れる感覚があるようだ。
だから、映像はそのままカタチを映し出すようにみえるが、それを見る人は、またそれを修正した感覚で美しいと思い、また醜いと思うのだろう。・・うだうだと見ることと描くことをほとんど毎日考えていた。
まあ、こんなのんびりした思考は現代の一見リアルな映像からは程遠いことかもしれないけれど、たとえば醜いものの美とか、美しいものの醜さが一つの存在の中に現われる現象をどのように知覚するか、それは物質化学での証明できない。なのに、テレビや映画などを観てほとんどの人が共通感覚を味わっている。(これを人間が操作している魔術だとすると怖いものがある・・)

現在、わたしは青墨で角隠しの女を描いている。(もうすぐ描き終えたい心境だ)その角隠しの様式のくわしいことは知らないが日本だけのものらしい。昔はほとんど花嫁が装うものだったのだが、今はさまざまである。
わたしには嫁入り前の娘の邪鬼の角が見えるのを隠すためのものかと思っている。で、何故花嫁に角が出るのか・・・・・。兎に角、元々が鬼なればそういうことかと思うが。
最近では平気で婚礼しても簡単に離婚したりもするが、一度角を隠して嫁入りした女性の覚悟は凄いものだろう。鬼だと自分自信が感じる女性は少ないし、現代にそうなふうに思う女性もないだろうが・・そういう純和風の結婚式を観るとなぜだか緊張させられる。
わたしは最近になって女性は鬼だと思うようになってきている。怖いけれど、これほど優しい(男にとってとてもかなわない何かの存在・・)美しさを兼ね備えた存在は無いと思うからだ。(ほんの一部には角をむき出しにしている女性もあるが、めったにいないと思う)
もともとイビツな人間の存在を修復しようとしたのが神話に始まり、文化であり、また様式であるのかもしれない。それらは全て核になっているのが女性であり、男性など存在そのものが修復できないイビツで、女性的な何かを取り入れなければ何もできない悲しき身体であろうか・・。
それはさて置き、青墨の色は一般の墨彩より清々しく透明感にあふれているが、俗に言う真っ黒には成らない墨で、玄妙とでもいうか、まるで夢の中での黒、瞼を閉じた闇のようにわたしは感じる。
さて、はじめて青墨のみで描いている6号の水墨画「青鬼娘」、12月17日から25日までの三島パサディナ美術館での展覧会までになんとか終わらせることが出来そうだ・・・。

描く作品が、なんだかすべ描くたびに、As Good As It Get  という感覚はエゴかもしれないが、じつに妙である。


2016年11月10日木曜日

哲学断章

哲学というのは、インテリ達のもので学識の無い者には読めないモノだと若いころからずっと思っていた。それでも読みたくて、読めないながらプラトン、ニーチェ、フッサール、カントなどなどと、最近ではウィトゲンシュタインといった哲学書にふれてきた。(近代日本の思想家、西田幾多郎、和辻哲郎、小林秀雄などなどはそれなりに優れた人物とは思うが、哲学であったかどうかは別な思いがある)そのような西洋哲学を解説する日本の哲学者の文章を頼りにしないとまったく読めないところが学の無さで、木田元、鷲田清一、中島義道といった方の本を何冊か読んで多少なり哲学が身近になってきた。けれど、実際の哲学とは何かというのは分かり始めたのが中でも社会批判が「ぐれている」ところの中島義道の各種の本であった。その本の中で彼が師としたのが「大森荘蔵」という哲学者だった。そこで初めて聞いた名の日本の本当の哲学者だといわれている人の本を読みたくなり、まずは入門書として中島氏が薦めているのが「流れとよどみ」(哲学断章)で、ここ数日前にやっと読み切った。
読んでいる途中にブログにもちらほらコメントを書いてはいたが、兎に角、その著書の「はじめに」から、文章が衝撃的で誰かに伝えたかった感覚であり、そのなんというか、その私自身の意識の向こうにあったような知覚を目覚めさせるような深い思索している哲学者の言葉が私の中に入ってきたことにハッと気がついた感動であった。
そのような感動は、例えば人の感覚は十人十色であるというが、その十人十色をまるで思考で科学しているのである。それが何だという決め付けではなく、それをどのように考えるかという指針を言葉で表している。自分にとっていまだかつてなかった、ほんとうにゾクゾクする哲学なのだった。(教養の或る方々はもうすでに御承知かも、そのような事は難解語訳カントも思索していたかもしれないが・・)この年にして目からうろこ、いや、新たな触感であり、もちろん美の周辺に微妙にして大きな変化が生じてきたことは確かである。特に世界は因果関係だと思っていたことに問が生じてきた、それが全てを一元論の「立ち現われ」で括る思考で論じていることにもある。

自分が描いた水墨絵画を一人でも二人でも理解してくれれば幸せだと、本当にためらいのない気持ちが起こっているが、この感覚が映し出されているようなリアリズムを大森哲学を読みながら感じた。
十人十色、人それそれの好みは違う。しかし、そんな簡単な理論では世界はバラバラであろう。また十人十色の共通概念の多さが全てを決めるとも思えない。ただ、そこには互いが映し合う世界があるはずだし、立ち現われる心や恋する身体は虚像ではないからである。

一般生活者の自分でさえがこんなに哲学を身近に感じられるような現在を思うと、哲学が一般生活者の床下によどんでいると気づけば、近い将来、よどんだ時流を泳ぐ私たちに新たな光がさしてくるのではないかという可能性を思わずにはいられなくなってくるが、どうだろう・・。

そんな訳で、やっとのことで「自分で考える」ということの何たるかを歩み始めたようだ。その杖になっているのは、やはり付かず離れずの「正法眼蔵」と、今は「大森荘蔵の哲学」がかなり丈夫そうな杖である。


ところで、アメリカの大統領選も決まった。
政治のことはよくわからないけれど、TVを観ていると・・・・ほんの少しの格差で決まったゲームの勝利のように、その重大さはどこかに消されているように思えてならなかった。




2016年11月3日木曜日

写実について


フェルメール「レース編みをする女」  水墨模写(部分拡大)     由三蔵 画

 
何かしらで選んだ対象を眼に見えているよう忠実に描き写す行為が写実画というものだろう。ただ、自分はそれを白黒の水墨で描いているので写実画とも云えないが、それが自分にとって何故水墨なのかの意味説明はしがたい、一個人の感覚の好みが和紙と墨によるもとでも・・・。
まず考える始まりは、やはり「見る」ということはどういうことかということである。
自分の外側にある景色(描く対象のこと)は、どのようにしてそこに現われ、自分の視覚(眼)から入ってきて脳に伝わり手を働かせるのだろうか。
という考えは「見る」といことが対象が眼から入ってくるという受動的なこととして科学的には考えられるが、その逆の経路もなければ「見る」という能動性は起こらない。つまり、脳から眼へ、そして対象へと向かう何かである。そこで立ち現われてくる現象を描くのが写実ということのようであるけれど、そこで自分と対象とを行ったり来たりする何かが問題になる。
凄い写真を越えたような写実画を描く作家さん達の言葉を読むと、さまざまな心の形容は十人十色の個性はうかがえるけれども脳のシナップスの流れの方向を逆にして、脳から眼の網膜へ眼球のレンズへ、そして外の対象へ向かう回路を思索した言葉は読んだことがない。まあ、そんなことは人の経験的科学の枠外かもしれないが、自分の知覚が想起したことを消すことはできない。
何かを「つくる」という行為に、なにかしらの作為が働くのはそのあたりに根拠がありそうなのだが・・・。
それにしても、現代写実作家さんは比較的簡単に自分の眼を信じる方が多いようだと思った。というか優れたカメラの眼と言った方がいいのかな・・。(そういう自分もそうだが、視覚するということの哲学はそう簡単でないと考える今日この頃なのです)

チョット思った。
写実とは関係ない現代アートの批判だが。
まあ兎に角、アートという名目での視覚の騒音のような作品のゴミ?は私のように最小限にし、量産、大作はやめてはどうかと・・・。
もう、これから無いだろうが、街の橋や建物などの一角をシートで覆い尽くした様な現代アートの作品は哲学論一冊あれば足りるのではないか・・・と。

「凄い写実画を描く若手作家たち!!」というタイトルの美術雑誌を読んで自分が思ったことを書いてみた。