2017年4月22日土曜日

コム・デ・ギャルソン

COMME des GARCONS

ファッションは
着る人の人間性を包含するものです。
それは常に政治や経済と密接に
関わっており、変化し続けている。
美の感覚はひとそれぞれです。
私の感覚も常に変化しています。
私には美とは何かという定義より
大事なことは
わくわくすることなのです。

・・・・・川久保玲


上記のことばは、2015年の「SWITCH」でのインタビューに掲載されていたものです。
40年にも及び世界ファッションをリードしてきた、第一線に立つデザイナーの言葉は、数少なく単純で明快。まるで哲学者が苦労して辿りついた概念のような言葉「自分の中の新しさ」それをいつも探求し続けていると云う。
その単純で素敵な言葉をわたしにも当てはめて考えてみた時、自分の中に水墨による新しいモチーフが現れた時のその「わくわくする」という感覚を身近に感じることができた。
・・・それは、言葉にならない「何か」である。
25~6年前ころ少しの間付き合っていた芸大の女の子が、ある日原宿のブティックでギャルソンの靴を買った。(分割払いだったが)20万以上する値段だった。「これはどうしても私が履くべき靴である」と・・・つぶやいていたが、本当にそう思ったのであろう。新たな自分に成れるようなワクワク感はお金に代えられないが、ファッションはビジネスで有ればお金でそれを買うことが出来る。それならアートと同じではないかと思った。
だが芸術作品を購入するのと同じような感覚が働くのかもしれないけれど、もっと触感的なところにファッションはある。
今の川久保玲さんのファッションはアートすら超越していくようなところに在るのかもしれない。
わたしは今頃の年齢に成って、いままで学んだことや経験したことがようやく、やっと問いかけとしてなってきた気がする。
これからが自分自身の創造的進化のはじまりのようだ。
ちなみに哲学者の大森荘蔵の「時は流れず」の読書感と共通するものをコム・デ・ギャルソンのメッセージを読んでいてドキドキしてたならなくなっている自分がいた。

その2015年のギャルソンのテーマ「薔薇と血」というのに、谷川俊太郎の五編の詩が添えられていた。
それからアレンジし自分流に言葉にしてみた。



その

うそはほんとうのこどもです

ほんとうはうそのおやこです

その・・・







2017年4月13日木曜日

数奇は奇数

なんのことはない、画を描いている自分の手を見て指は五本で関節が三つであるという事実に気がついただけである。
だが、その手は道具を使い好きなものを手に入れるのに欠かせないこと、もちろん手が無くととも好きなものは手に入るだろうけれど、想像し、なにかしら表現したいということでの手に入るという、モノづくりの人間にとって手は重要な役目をしている。
つまり、いまいっている、その手に入れたいというのは実在のモノではなく存在自身とでもいっていい、そのものである。
自分が書物を読んで知った数奇な人は西行、良寛、道元・・・などなど何人かいるのだが、きっとどの人たちも数奇を好み奇数にしたがって生きた人物のように思われた。
数字の一に始まる、1というのは考えることが不可能な数だと優れた数学者が云っていた、考えられるのは2からであると・・・。
だから不可能な1を考えようとする人を数奇な人というのかなって、1+1は2ではなく3あるいは1だという思考ではないかと思った。
奇数は動で偶数は静・・生と死、安定と不安定、強いものと弱いもの・・・生命の始まりと進化などをイメージします。(まあ兎に角、恣意的ではありますが・・)

今まで、フェルメールの水墨模写を2点描いたけれど、やはりどうしても水墨にしたと考えていたのが「デルフトの眺望」である。
どのように水墨で描けるかとずっと思っていたもののなかなか良い構想が浮かんでこなかったが、最近になって、ふと頭に浮かんできた表現像があり、それに近い画像をパソコンで作り下図にし描いてみようという計画を思いついた。
それを描く紙は初めて注文した雲肌麻紙で試してみよう。そして墨は、先日ブログに書いた、お友達の女流日本画家に頂いた六角柱で出来た中国の高級油墨を使う事に決めた。自分が手に入れたいフェルメールの「デルフトの眺望」を描く事を想像するとワクワクしてくる。
(偶数は実存の数で、六角の墨を磨ると八角に成るがその一点の角を磨ると11角に成る・・・なんだかこじつけのようですが・・そんな哲学的感覚を楽しんでいるのでしょう)

ようやく[Jiu](慈雨・時雨)が描き上がった。そこでも試したその古墨は実に心地よかった。
もちろん姪子の(呉竹で墨職人をしている)墨は好いのだが・・その本当の優劣の差などは分からないが、数奇でまたお金を出しても買えない高質な墨が手元に有ることに感謝します。


一時より一日におよび、乃至一年より一生までのいとなみとすべし。仏法を精魂として弄すべきなり。
これを生生むなしくすごさざるとする。しかあるを、いなだあきらめざれば、ひとのために、とくべからずとおもうことなかれ。
あきらめんことをまたんは、無量劫にもかなうべからず。
・・・道元「正法眼蔵」(自証三昧より)

ああだこうだと考えているうちに、一時のイメージの立ち現われも消えてしまう。
描くことは至難だが・・今やらなくて、いつだれがやる。
そんな勇気ある励ましの言葉に聞えてきました。




「JIU」(慈雨・時雨)

水墨

由三蔵 画




 

2017年4月1日土曜日

音楽と絵画

日常生活の中で視覚より聴覚、つまり音は情緒をかなり左右するようです。
ここ数日、なんの意識も無いのに頭の中で音楽が、ほとんど一瞬ですが流れます。
その音楽は、キース・ジャレット(ピアニスト)の「ケルンコンサート」即興のソロピアノレコードの一部です。
若いころから、いまだに聴いている音楽のひとつですが、以前はその始まりの部分が頭の中で鳴っていたのですが、今時折鳴っているのは、静寂から徐々に躍動感を増してくる中間の部分なのです。
バッハ、モーツアルト、ベトーヴェン、ワーグナー・・・そしてキース・ジャレットとでもいっていいかと思う音楽の世界遺産だが、そんなものもつくられてもいいが、やはり自分には自分だけの思いが確かなら十分だと・・・まあ、世界遺産とかノーベル賞とか・・実は世の中によりよいよいものを残そうという偽善に満ちた強制にも思えてよくわからないのだ・・・どうでもいいが。
芸術、哲学など言う言葉も西洋から来た素敵な言語の日本語訳である・・・・・しかし、そこに現れる音楽、絵画など、そのもの自体は言葉をもたないのに繋がっている何かがある。
音楽は特に学問や知識無くしても、それを聴く人の心の中に立ち現われてくる情感に言葉はいらない。
わたしが理解しうる絵画の中で音楽と対をなす芸術はいまのところ少ないのだが、それが何なのかわからない。
音楽に感動するのと同じような感覚でフェルメールの絵を観ることができる自分の美意識を考察しつつ水墨を描いている。
凄い写実絵画を描く現代作家が多くいるけれど、なぜかググッと沈黙してしまうような作品に出会うことが稀にしかない・・けれど絵画の創造的進化の方向としては、へたな抽象や創作よりモチーフをただ写す写実絵画がいいような気がしている。(評論家のような語りになってしまいましたがドンマイ!)
天声から「お前の水墨はどうなの?」という厳しい苦言が聞こえてきました。(はい、修練してます。そしてまた楽しんでもいるようです)
音楽と絵画の因果関係のことを少し書くつもりでいましたが、どうもうまく書けませんでしたね。




慈雨(未完)

水墨

由三蔵 画



この絵が描き終えるには、まだまだ時間がかかりそうです
ですが、仕上がった作品を見ても、この画像とたいして
見た目は変らないでしょう・・

6月21日からカツマタ画廊(ギャラリー・タイムキル)でのグループ展に出品するつもりです。
音楽が聞えてくるような水墨画となれば幸いです。