2020年7月28日火曜日

美術を哲学する

どのように言葉にすればいいのかわからなかったので、このようなタイトルにしました。
元々、日本語になかった哲学という言葉ですが、最近では芸術すらアートという日本語にしていますから、そう深く考える必要もないと、、、、でも、自分の感覚で腑に落ちない何かがあるからでしょう。
近代絵画あたりから現代美術まで、美しくないモノ(共通感覚による)まで美術のカテゴリーの中に入ってきましたが、皆様はそういうことをどのように思っているのだろう?
そのような疑問がなかなかぬぐい切れません。
美の様々な定義みたいなものも歴史の書物の中でも言われていますが、それはあくまでも概念であり、自分の経験として現れなければ何の価値もないのと同じです。

まあ、そんなわけで解らないまま、つまり美術を哲学しながら墨水画を描いているわけですが、、、九月の十七日から一週間、三人展を開催します。

案内状のデザインを手がけましたのでアップします。




2020  9/17ー22
場所・ギャラリーほさか(沼津)



2020年7月26日日曜日

生活の柄

この言葉は山之口獏という詩人の中にある詩のタイトルです。
今はもう亡き高田渡というフォークシンガーも歌っていました。
現在の自分はこの言葉の意味をもう一度考えているのです、、、、。

わたしの生活の柄あるとすればどのような柄なのか?
生活の柄とは、生き方であるとすれば、わたしの柄はポロックの絵のようなペンキ屋さんの汚れた作業着のようなものではないかと思うのです。これはかなり自分を美化しているナルシストの考え方で、そこに自分を陥れるフェミニストでもあり、さらにそれは主観的エゴイストであるのでしょう。
そんな自分が墨水画を描いているということだけが、生活の柄を変化させる、あるいは他者を受けいるることの兆しが、生活の柄を塗り替える、または重ね描きすることで新しいい柄が立ち現れてくるような気がしています。

両親をはじめ、友人、知人など何人かの人がこの世を去っていきました。
その人たちの生活の柄を感じます。

優れて美しいものには、どういうわけか悲しみ憂いのようなものが付いてきます。

お盆。ですね!!供養とはそうゆうものではないでしょうか。。。。

2020年7月22日水曜日

恋という狂気

また、読んでます。
プラトンの「パイドロス」

恋というのは経験でしかわからない!

六十歳の恋。。と小学生、あるいは思春期、成人してからと、、。

自分の経験の中でしか、映画や小説、ドラマといった物語を観ることしかできない、、とすれば、その感動も自分の中だけのことだろうかという疑問が生まれます。でもそれは違うのではなかろうか、、と。

他者、あるいは絶対他者が、自らの経験の中に入ってくる。そういう自分がいるということになると言ったほうが正しい気もします。

大切なのは、想起(思い出すこと)。そいう感覚が薄れてきている。そうではいけないと。記憶することを機械(PC)に依存することは自分の時間を増やすように見えるけれど、それは全く逆のことだと。
なぜかわからないけれそ、そんな気がしている近頃です。

2020年7月12日日曜日

2020-三人展

9月の17日から六日間、沼津の本格ギャラリー「ほさか」で三人展を予定しています。
昨日はその下見と、打ち合わせをしてきました。本格的な設備のギャラリーで展示会をやるのは初めてなので、三人展とはいえワクワクしています。詳しくはまた色々決まってからご案内したいと思っています。結構広いので、前回の個展と同じくらいの数の作品が展示できそうです。ここ5~6年の間に描いたものと最新作の墨水画と選りすぐって充実した展覧会にしたいです。

墨水画 10号 由三蔵

今回の個展でも人気の高かった作品です。



2020年7月11日土曜日

パイドロス(プラトン)

昨日から今日は丸一日、プラトンの「パイドロス」(岩波文庫)が読めました。

読んだと、言わずに読めましたというのが正しい言葉だと思います。
つまり、面白いと思っていなかった本を、再読して、今の自分の問題に照応できたという感じがあったからです。
恋(エロース)と弁論術をテーマにした、ソクラテスとパイドロスの対話編なのですが、今自分が問題視しているのが共感覚ということで、どうして人間にはそういったものが存在しているのか、、、、、。もちろん答えなど神の領域にあるとは思うのですが、それでも画を描いて発表し他者に観てもらうことを自分が何故やっているのか?そういった不安から、信じられる、頼れるもの、指し示す何かを知覚したいということだと思っています。
古代から現代に至って、さらに未来へも考察されていくであろう「エロース」、命とも恋とも欲望とも、更には生命の根源とも、そして普遍的ー何か。

わたしにはプラトン(ソクラテス)がいっているのは、それは純粋なところの「美」そのものだと言っているように思いました。そしてそれは自分の考察していた価値基準でしかないのだとも、、、、。
でも、それでいいと思っています。どうしてかといいますと、一歩また明日へ進めた気がしているからです。

2020年7月10日金曜日

技術と狂気

プラトン、アリストテレスの時代から、すでに書物にあったことのようです。

「技巧だけで立派な詩人になれるものと信じてムッサの神々の授ける狂気にあずかることなしに、詩作の門に至るならば、その人は、自分が不完全な詩人に終わるばかりでなく、正気のなせる彼の詩も、狂気の人々の詩の前には光を失って消えてしまうのだ」と、、、、。

紀元前のプラトン「パイドロス」の解説からですが、現代でも通用するような芸術、アートの世界ですね。
わたしの墨水画もある意味では技術(技巧とは違うと意識してますが)そのもので情念などをなるべく持ち込まないようにしているのですが、狂気の絵画の前で光を失うのでしょうか?
やはり、時代、、、つまり時間と場所、歴史、現代の経験としての今の事実を信じたいと思います。もちろん、哲学的云々は別にして、、、、狂気とは何か、技術とは何か、創造とは何か、と言葉の捉え方でも異なります。そして記憶、想起、知覚する感覚を考察する必要はあると思っています。

とにかく、日常の生活に戻れば、哲学自体がどうなるのか、、、一番問題でしょう。

そうして、現代の哲学も意識しているようですね。

2020年7月9日木曜日

共通感覚論とは

人類の歴史の記憶にある共通感覚とは?
その確かな説明はいまだにでてこない。
それなしでは社会も世界もできないはずなのに、、それは、何故だろうか。

今回の墨水画展2において初めて体験したことがあります。
二日目にご来場してくれた女性なのですが、わたしの知人が連れきました初めてお会いする方でした。
まるで何の物語性も情緒もないようなリアルな一点の墨水画を観ていて、、涙を流されました。その情景を視てわたしは驚愕してしまいました。もちろん言葉なんかでてきませんでした。

それから、五日目。以前アルバイト先の社員さんが来てくれました。
その方も女性ですが、別の墨水画、幼児の顔をアップした絵ですが、それをジーと観ていて、ハンカチを取り出して涙を拭き始めたのです。

共通感覚。それはおそらく記憶と時間と場所からなる、何者かでしょう、、、、。

こんなに素晴らしい墨水画を描くことへの励ましは、絵が売れること以上に、いやそんな事を超えたかけがえのないことだろうと思っています。