2016年12月28日水曜日

過去のブログ削除

絵を描くという、言葉を考える。
よく使われる「絵を描いている、絵を描いた・・」などという言葉のことです。
描く絵と、絵を描くと云うことの、まるで食わず嫌いのような偏食的な違いを思いました。
わたしの場合、なかなか絵が描けないというか、食えない絵というか、絵ではない絵とでもいうか、絵を描いているのでなく、描いているモノが絵になる。とでもいうほうが正しいように思うのですが、それはいかに思考すればいいのかと・・・。
なぜ、そんな事を考えてしまったかというと、今回の模写をしている途中の画を撮った写真が意外と絵として面白いのではと思い、年賀状にデザインし使ったのですが、なかなか好い出来で「おお、これはセザンヌ様に近づいた・・」などという、自己満足の感覚が立ち現われたからなのです。
まさに、フェルメールの絵を観ながら描いているのだから、言葉どうり私が「絵」を描いているということになります。
おおよそ、プロと呼ばれる画家たちは自分の経験の中で観た絵が頭の中に渦巻いていて、その画家たちが見て描いている風景や静物、人物、はたまた抽象にしても、記憶の中にある絵を紡ぎだしながら(無意識にしろ)描いているのではという思いが起こりました。(ピカソやモジリアニーなどなどアフリカや古代の創造物に眼が入ったのもそうかも・・)
そう、だからやはり絵を描いているのですね。自分のように描いている行為がカタチとして絵になるという云い方(思い)と若干異なるのですが、微妙な、奇妙な、またどうでもいいという、つまらない話です。
哲学ではこのような思考をコペルニクス的云々とか三段論法?などと云うようですが、それとは違い恣意的で論法でも形式でもない・・・なにものか?という答えの出ない何かで、きっと終わることが無い「私」の問いかけの探求なのでしょう。
例えば、今回の文章の「絵」という処と「描く」という動詞に何かあなたの自分の機になる好きな言葉を入れ替えて考えてみると、どこかで読んだノウハウ本を思いだすかもしれませんね・・よくやるのですが、理解しにくい文章など自分流の言葉に置き換えてみると案外入りやすかったりします^^)

兎に角、今夜のブログはいちだんと恣意的になってしまいました。
さて、展覧会も終り今年も残り少なくなりました。月並みな言い方をすれば、わりと密度の濃い充実した一年であったと思います。暦の占いでは八方塞で自ら行動することは控えめにということで、時流にさかわらず過ごしたわりには何か明日への収穫が多かったように思いました。
やはり、一番は最後の展覧会でしょうか・・・。その訳を語るにはまだ感覚が曖昧ですが、勝手ながら本年までの過去のブログ投稿記事を削除しようと決めました。

明確に言葉にできないこと。それは知覚や知識が自己認識を可能にする。

そしてそれは創造性だろうという考えが立ち上がってきたことによります。








2016年12月24日土曜日

わたしの消息

今の自分、つまり私は・・・・・水墨の魅力で真の美を指し示すようなリアルな絵を描けたらと思っている。
今回のフェルメール「レース編みの女」の模写の経験は、いまだかつてない描く事の喜びをわたしにもたらした。それは画家の眼を追体験するような感覚を味わってとでも云うべきか。
そこには、匂いや手触りといったものまで感じることができた。そして水墨を筆に取り重ねて描いてる自分が「私」ではなく、わたしから浮遊したような身体が描いていたような、すでに過去の記憶として思い起こされる。
兎に角、何かが大きく、いや小さな変化を感じたことは確かだろう。
自分が今まで考えていた概念が過去の既成概念になって、新たに立ち現われ生まれてきた思考は仄かな光で照らされているような。その後、つづけて描いて絵になったのが「青鬼娘」だが・・・。
わたしがわたしを捉えようとするとわたしはす~とどこかへ消えていく。
だからといって、わたしは世界の中でわたしで在ろうとする。
わたしがわたしからいなくなる恐ろしさ・・・・・。
それは、子供の頃に経験したことで、自分から抜け出た自分の存在の記憶である。それは成人になるにつれ無くなったが、ベットで寝ている自分をもう一人の自分が天井の隅から眺めている光景である。まるで石膏で固められたように身動きできないわたしがそこにあったこと・・・・・・(あまり語ると創作になるから)ただそれだけだが、なんでこんな記憶を思い起こすのか解らない、けれどこの度の模写の体験はそれに近いところに在ったみたいで、魂だとか霊だとか関係なく思考することで認識したいと思っている。

あなたがわたしを観るとき
あなたはわたしをわたしとして観ている
わたしと同じように・・・
あおきむすめよ


「青鬼娘」部分

水墨

由三蔵 画





 


2016年12月21日水曜日

The Lacemaker 「フェルメール」

フェルメール「レース編みの女」の絵の価値はどのくらいだろうと、ちょっと検索してみたが最低100億円~らしいが、戦争でも起こらない限りルーブルから出ることはないだろう。この絵画の解説は色々な図鑑でされているので、知らなかった方は読んでみるといいと思います。
この絵が多くの画家たち、また美術愛好家から驚異的に評価されるのは、まずそのサイズにあるだろ。それは、本物の名画を見なくても優れた複製図版で原寸大の作品として見る事が出来るということは、世界の名画の中でも唯一ではなかろうか。(実際、デューラの版画とか他にも個人的にはあるけれど・・)また、そんなことだけで名画なのでもない、この絵の本当の魅力は模写して始めて解ったことがある。それは、絵全体をひと眼で見ると穏やかな日常の編み物をする景色だが、しかしそれだけでは見えてこない細部をなめるように視た時に感じる臨場感は驚異としか言いようがない。特にそれは編み物をする女の視線が向かう手元の二本の糸の交差するところにあるだろうと感じた。
模写にあたって、この二本の糸、そのものの明暗強弱を紙の白を残し水墨で表現することが出来るか?ということに強く興味があった。模写に着手する前に絵を何度となく見詰め、その制作技法をイメージし、その手元の部分からから描き始めた・・・・。
兎に角、模写している時の、なんというか豊かな思考の流れや感覚を全て描き表すことは出来ないけれど、蒼いクッションのような道具入れからはみ出す白と赤い糸は、まるで水が流れ出るように描かれ、布や女の髪や顔の輝きはぼかされている。それから・・・・・また全体に二眼を注げば、驚く事に、そこには三次元の空間が視覚されるのである。
その絵の美の神秘の科学を感じたのは、この約21センチ四方の大きさに注がれる視角うちに立ち現われる感覚にあるのではではないかと・・・。
そんなこともあり最近になって、「光と視覚の関係」「脳と心の地形図」といった本を買って読んでいるが、科学では解明できないことがいかに多くあることかと、しかしそれより脳の仕組みや働きについて、自分の知らなかったことがさらに多くあることに知識のなさを痛感した。

それはさて置き、ほんとうにこんなに小さな絵でも十分「美」の世界を表現出来ることを知覚した。絶対ではない模写だけれど、豊かなぼかしとリアルな細部の臨場感をモノトーンに出来たこと、これは水墨作品としてもいいのではと思い、この度の展覧会に出品させていただきました。



「レース編みの女」 フェルメール
(23.9×20.5)

この度、水墨で模写した原画です。
自分の記憶が正しければ、中学校の美術の教科書にありました。
間違っていたとしても、わたしが目を閉じて立ち現われる
この絵を最初に視た景色なのです。

おおよそ約50年前のことです・・・・。







 

2016年12月17日土曜日

ごあいさつ

今年も残りわずかとなりました。
年末恒例の当美術館「ゆかりの作家たち展」を開催いたします。今回は約70名の作家たちの作品を展示します。
皆さまお誘いあわせのうえ、ご高覧賜りますようご案内申し上げます。

・・・と館長の言葉。

今日から約一週間、三島パサディナ美術館での展覧会が開催されます。
出展参加したものの、正直いいますと、この美術展の主旨たるものも良く分からないのですが ^ ^) 兎に角、美術の発展(?)の中に小さなザワメキとなればいいな~などと気楽に考えている次第です。

次の作品の発表予定は未知だが・・・・・・。
わたしの毎日はほとんど水墨絵画に専念している。(なんて、セザンヌのように・・)
とはいっても、現在、最低限の生活を維持するために描く事に専念できる時間は限られてる。それはしかたのないことだが、少しはそれもかんがえなければならないと思い始めている。

まだモチーフも決まらずあれこれ迷い、その対象となりそうなものを見つけ出すことは画く事と同じくらい重要なことで、あたりまえだが、ただ美しい眺めの景色ではモチーフにはならない。それを決めるのは自分の全ての感覚以外のなにものでもない。
わたしの言う景色とはただ自然の風景というのではなく、人の顔、身体、物質、などに現われている外観のことである。
しかし日常出会う人やモノ、また美しい風景に感動したりすること抜きにはあり得ない事も確かではないかと思う。
そのモチーフとなる景色が決まり水墨としての構想が立ち上がって来た時から描く行為が始まる。一か月二か月と描き続けることに精神的に耐えうるモチーフでなくてはならず、対象を見つめる時に眼球からもう一つの手が伸びて触れるような感覚を想像できないとダメなのだ。水墨で描き上げた絵が、なめらかな明暗による写真的表現の描写であれ、知覚できうるものの実現の探求のプロセスであれ、そこに詩が無くてはならないと考える。それが今のわたしの水墨絵画の道だと思っている。
こらからどのような技術的変化が現われるかわからない。なぜならフェルメールとセザンヌの芸術にはまだまだ学ぶところがたくさんあるからだ。それは「世界を観る眼の哲学は止むことはない」とでも言っていいと思う・・・そのことばにある。
ひとつ、またひとつと作品を発表していくごとに、リアリズムへの欲望の乾きが生じている。それは本当に生々しい命の感触を表現できる対象に出会うことからはじまるだろうと考えるが、そう簡単に思うようにはいかないものだ・・・。

「セザンヌ絶対の探究者」という画文集が手元にある。
そこには「・・・・私は私自身を真実の上に当てはめて写したいのだ。私とは何なのだろうか。真実の魂にまで到達すること、真実をあるがままに表すこと。」という哲学的な言葉が表紙に書いてある。
自分はいつも、何なんだ、この言葉は?とため息をついている。



2016年12月12日月曜日

今年最後の展覧会

美という言葉を考えてみる。
なにかを観たり聞いたり味わったりした時に、「美しい」とか「美味しい」とかいったこと以前の本質的なことを意味している言葉が「美」だという考えがあった。それはやはりそのたった今、石垣りんの一編の詩を読んで感じた、心が揺さぶられた、美しい鬼に出会ったような感覚にもあてはまる。
普遍的などという言葉はあまりにも崇高過ぎて、現実的でないので使いたくないけれども、なにか一つのものを求めてあれこれやってきて、まあ年食ってくると、しかたなくそのような強烈な刺激に対しては普遍的とでも言いたくなってしまうのである。
このブログ「美の周辺」という2010年に始めたタイトルだが、我ながら的を得ているのではと、周辺とは美が伝播してくるノイズのようなものを受け止め、その場しのぎで立ちあらわれ来る感覚を表現しているようなことになると思った。
美は相対論的にあるのではなく主観的普遍性にあるといことだ。そして「どうせ、わかるはずがない」という態度を抹殺していかないと美しいものを観たり聴いたりしても「美」の真理に近づく事もできないだろう。

兎に角、本やメディア、情報などの言葉や映像でしか出会えない高度で素敵な経験も確かに好いが、それにも増して身近で直に触れ合えそうな人やモノの魅力にはかなわないだろうという、自分が知覚できるような欲望は消し難い。その心は少しダリのような偏執狂的?ではあるが、なんとか画く事でカタチにしたい・・・そう思う今日この頃である。

さて、今日は三島パサディナ美術館「ゆかりの作家たち展」の搬入に行ってきた。
小さな美術館に約70人の作家の作品が並ぶ訳だから、肩を並べるように所狭しと何かと窮屈な展示になりそうである。まあ、それもいいだろう・・・・・。
この展覧会も今年で最後になるというので寂しいが、地方の小さな個人美術館の経営もなにかと苦労が多かろう。
ほとんどの作家さんは一人1点のようだが、出展の誘いを受けた時に新作2点出させてくれるなら、という約束どうり「フェルメールの模写」色紙大と6号「青鬼娘」を搬入させていただいた。
館長自ら肌寒いロビーで受付をされていて、この方は本当に美術が好きなのだろうと妙に心が熱くなった。


美しいとか醜いとか、優れているとかいないとか、好いか悪いか・・・・・何を観るかは人それぞれだが、それぞれの方々がそれぞれの作品を観て、そこに個人的に立ち現われる感覚は何なのかをも見つめてほしいと思います。
昔、映画評論家の淀川長治さんのように、美術って本当に好いですね・・・・・と云っていただくと嬉しいです。



「青鬼娘」

フェルメール「レース編みをする女」 模写


水墨

由三蔵 画




今回、搬入した水墨画の作品です。
上の画は全て青墨で仕上げました。
よく妙玄な墨色などといいますが、画ももちろんですが
墨の色も観て頂きたいと思います。

下のフェルメールの模写ですが、何度もブログで描いているように
元の絵が完璧な美学的表現に充たされているため
水墨の模写も「フェルメールもビックリ!」と館長さんが言ったように
かなり自分では納得のいく画になりました。

今回の水墨の水は水道水ではなく、市販の天然水を使い
硯で擦った墨汁をつくり使いました。
画を見ても何処が違うのか分からないと思いますが
描いている感覚は確かに何かが大きく異なっていたことは確かです。

そのあたりに「美」が立ち現われるのではと・・・






 

2016年12月10日土曜日

こころのこり

朝日新聞朝刊の「折々の言葉」に、心のコリ(嫉妬や憎悪などの情念)をほぐすのも芸術の役目だろう。というようなことが書いてあった。
もちろん、それもあるだろうが、なにも芸術などでなくとも趣味や娯楽、子供やペット、優しい微笑みなどなど沢山あるように思う。まあ、そのコリ具合にもよるだろうが・・・・。ではその心とはいったいどこに存在するのであろうかと。自分の意識のハタラキによって立ち現われてくるものだと思っているが、身体の痛みとか肩こりとは違い、やっかいな存在でありまた人にとって不可欠なものである。しかしどうもその心とは自分の身体の中にあるとも考えられないのだ。そして、容易くは手に入らない感覚の領域、そのあたりの真理の探究にこそ芸術の役目を感じる。
わたしに画を描かせる心とはそのようなものであり、美術のチカラではないかと。

「あなたの頭脳が想像しうる最も驚異的なビジョンは、レオナルドかフェルメールの名工的才能でもって描かれうるのだ、ということを知らねばならぬ。」
「もしあなたが、解剖学を遠近的技法を、デッサン技法を、そして色彩に関する科学を、学ぶことを拒むならば、私はあなたにいわせてもらいたい、すなわちそれは天才の徴候というよりむしろ怠情の徴候なのだ、と。」
「まじめに・・・・・。ふまじめに描いてはならぬ。」
「レース編みの女」はこれまで、平穏無事の絵のように思われてきましたが、しかし私にとっては、もっとも激烈なもののなかのひとつである。美学的な力によって支配されているのであり、その力に対しては、ただ最近発見された反陽子のみが肩をならべることができるのです。」
・・・「天才の日記」サルバドール・ダリ著・東野芳明訳より(1974年1月20日初版発行)

ダリの偏執狂的方法が、じつは人間のさまざまな学問や実験、また肉体に関する生物学的革命の観念から紡ぎだされて来た芸術だということを、若き頃に購入した(こころのこりの)この本を再読していて感じた。

水墨の絵を発表するようになってから、よく聞かれることがある。
「なぜ水墨画でなければならないのか?」と、つまりはたぶん写真のようにリアルに水墨で描いているからだろうと思うけれど。
いつもブログで時折思いつきで書いてはいるが、いつもうまく言葉で言えているとはいえない。
きっと、ようやく自分にとって身体に馴染むような絵画の世界を見つけ出すことができてきたからだろう。
「画家よ、きみは雄弁家ではないのだ!だから黙って絵を描きたまえ!」とダリの日記の言葉に叱られそうだ。^^)

こころのこりはこころのこりのあわれなのか・・・・・・・・。



画題 「青鬼娘」 (部分)

水墨画

由三蔵



写真で撮った画なので雰囲気がかなり異なっています。
是非、実物を観に来てください!

この度は青墨で描きました、濃淡の美しさを見て欲しいと思います。





 

2016年12月5日月曜日

恣意的

その意味は、勝手気ままに、思うがまま、場当たり的といった形容詞であるが、「恣」は、ほしいままに、好き勝手な心や考えの意味もある。また、無作為や定まった意図が無いという意味もあるようだ。いずれにせよ優柔不断で曖昧な言葉だが、妙に気に入っている。まあ、普段会話の中でまったくといっていいほほど聞かれることが無い言葉だと思うが、教養のある方々の会話の中には登場する言葉かもしれない。
だいぶ前、五年ほど前になるだろうか。その頃にお付き合いのあった教養ある自分より年上の女性に会話の中かで言われた言葉が初めて聞く「恣意的」という事だった。つまりが、わたしのことを恣意的な言葉で表現する人ですねと・・・・その時には意味もわからずうなずいていたのだが、後で辞書で知らばればあまり良くない、まるで無知な人間のように思った。
しかし、その時に彼女は「好い意味で」という言葉が追加されていたのを思うと、自分らしいのかもしれないとも、やはり恣意的に思ったのだ。
で、最近買った本(正法眼蔵の関係)の中に二度目の「恣意的」という言葉が使われているのに出会った。で、自分が恣意的人間だとすれば自分が描く絵も恣意的絵画ということになるのか・・・・。(超恣意的写実主義なんかどうだろう?   ^^)

☆ さて、今年ももう師走。
いよいよ初参加のこの界隈の美術展覧会に自分も作品を出します。右に広告を作りましたが、毎年恒例の展覧会らしいのです。なんと約70人の作家の作品が並びます。(展示作品の売却もあるそうです)
私も新作2点、「フェルメールのレース編みの女の模写」と「青鬼娘」の水墨画を出品しますので是非観に来てください。



この広告はわたしが勝手に自分の描いた水墨画を使ってデザインしたものです。
きっと、こんな事をまじめにやるから「恣意的」なのでしょう。

(実際の展覧会のポスターではありません、あしからず)