2021年6月27日日曜日

墨水画展

 


恣意的絵画小論

 

絵画とは何かという問にいずれは自分なりの決着をつけたい。

遠い過去の記憶の中に一枚の美しい絵があります。それは五十年前頃に友人の絵画サークルの展示会で見た小さな六号位の油絵で、キャンバスに塗り残しの目立った花瓶に生けた花を描いたものでした。この記憶が、いつ何がきっかけで思い起こされたのか・・・想像力をかきたてれば、展示会の開催された場所がパン屋さんの二階であったことを考えてみると。ある朝、トーストを焼く匂い、あるいは何処かの街のベーカリーの前とか、無意志的記憶の立ち現れは不思議です。「このような感覚によって偶然もたらされる記憶こそ真実を再現するものだ・・」と、かの「失われた時を求めての」の著者、マルセル・プルーストは言っています。

この絵の記憶は五十歳を過ぎたころから頻繁に想起されるようになりました。そして同じ時期にセザンヌの良さが分かり始め、また水墨をはじめたのもそのころだったのは偶然でしょうか・・・。

手は盲目的であるがゆえに触れることができ、形をなさないものを作り、道具の物質性と関わりあうことができます。素描(デッサン)にはこの盲目性が入り込む、その痕跡の延長に墨水画があるような気がします。

あるモチーフによって身体が知覚したイメージを、知覚される側へ投げ返す、つまり身体の外側へ置き直す・・・・。描くという行為を分析するとそういうことかと思惟します。

わたしの絵の前に立って観る人は、たとえそこに描かれたものが「私」を通じて知覚された絵であっても、観る人の視点は、その人自身の「私」感覚でしかない、というか観るとは様々な意識の立ち現れからなり、何かを指し示す絵は図像だといえます。そして、絵画における表現というのは直示的根底をなす図像ではなく、把握不可能な「何ものか」が実在感をもって現れてくる未規定性のハタラキにあると考えています。


2021年3月18日木曜日

2021水墨模写

 久しぶりのブログ更新です。

六月に予定している個展へ向け昨年の八月の三人展から七か月ほど小さな作品ばかりですが十点ほどの新作が描けました。

現在、F10号のモチーフを描くための試作を描いています。現代美術、コンテンポラリーな作品になるかと思いますが、、、、どうなりますかやってみないとわかりません。できれば個展に間に合わせたいと思っています。

今回は、17世紀のオランダの画家、ヘラルド・テル・ボルフの「手紙を書く女」を水墨で模写しました。フェルメールより少し前の画家ですが、表現はよく似ていますがボルフの方が技術的には優れているように感じました。



水墨模写
麻紙 F6号

由三蔵





2021年1月17日日曜日

時間と空間とわたし

 年明けから半月が過ぎました、さらに治まらない正体のわからないコロナ渦の世界です。これほど世界の人達多数が顔半分を隠し生活している光景は歴史に残ることだと思います。歴史といえば人類が生存しているという前提の言葉ですが、、、人間の種が遠い未来に生き残っていたとすれば、なにを馬鹿なことをしていたのかと。人間の本能丸出しの出来事と未来の人類は思うのかもしれません。

もしも、人間の本能というのが想像力であるとすれば、、、ヒュームからカントの哲学がその問いかけを指し示しているようにも思われます。



墨水画
麻紙 6号

ミロのビーナスと時間の習作

由三蔵





2021年1月5日火曜日

新年あけましておめでとうございます

 新年早々、Facebookに新年のご挨拶と5年前の墨水画を掲載したところ、今まで多くても60くらいの「いいね」をいただいていたのですが、それがなんと150を超えまたコメントも沢山入ってきました。兎に角、驚きです。

まあ、バーチャルの世界で喜んでいるわけですが、悪い気分ではありませんね。

本年もよろしくお願いします。


墨水画(色紙)
フェルメール模写
2017

この習作はある方に渡っていったもので
手元にはありませんが思い出の1枚です。