2016年9月27日火曜日

フェルメールの水墨模写

身体はわたしの入れものだと或る女性小説家が云っていた。
なかなか文学的な表現である。その入れものが無くなってしまっても自分は無くならないということにもなる。それは単に入れものが無くなっただけで自分は別に在るということだろうか・・・。
きっと、別に在るのだろう。それがなんなのか科学では証明できないことだとして、わたしもそのように考える。
ただ、例えば現実には歯が痛いと云った時にその痛みは身体だけではなく感じるのは自分である。自己の感覚は第三者には理解されない、その痛みが解るのは自分だけだ。たとえ医者にもその痛み自体は解らない。そうすると身体は自分自身そのものでもある。その痛みを、これは身体の痛みだから自分とは関係ないとはいかない、その痛みに耐える自分がいる。耐えがたい痛みの身体を自分から切り離そうと思考したところで痛みは消える訳ではない。
耐えがたい痛みを消すには麻薬のようなものを使うか身体から切り離すしかないとなれば、あるいは人は自ら死を選ぶであろうか・・・。
まあそれは極端なことであるが、もしもその痛みを解消できる方法があるなら、たとえ薬だろうと宗教だろうと藁をも掴むようにすがるのだろうか・・。実はそういう事ではなく、もしかしたら身体は麻酔状態でも痛みを感じているのではなかろうかと、そんな時に自分はどこへ行っているのだろう。
しかし、そうなると身体と自分との関係はどうなるのだろう。まるで、身体とは別に自分は勝手に夢の中へでも隠れてしまっているようだ。
瞑想や悟り、あるいはヨガなどのトランス状態はいたって非日常の世界で普通の生活から一歩離れている。
やはり現実は身体と自分は一体であるという志向が基本にあってのうえでの、芸術や一般哲学や言語ゲームでは身体はわたしの入れものだという思考の上書き、あるいは重ね塗りが起こってくるように思う。
兎に角、身体は重要である。耐えられなく痛いのは嫌であるし、身体的な苦痛の究極は死であろう。(まあ、これも非日常の場にあっては痛みに耐えつつ大切なものを守るかもしれないが・・)
身体が入れものであるとすると、身体が無くなった時に自分はどこえいってしまうのだろうと考える・・・解らないが、きっと別のどこかにあるのだろ。それとも、やはり同時に自分も無くなるのだろうか。
見るという視覚でも実は元に身体の触覚性がなければ見た観るという感覚も発起しない。(大森荘蔵の哲学を読んで・・)意味を無くした言葉のように存在があやふやになってしまう。触覚といえば、まず手指、それから唇舌などの皮膚感覚を想像する。触覚のあらゆる経験は見るということを深くすることを最近になって考えるようになった・・・・・・。今更ながらのフェルメールの模写に学ぶところ多し!
身体が自分の入れものなどという表現などは、どうも真の存在の何かをあやふやに誤魔化しているように聞こえてくる。しかし、それが指し示す妙があるなら言葉が入れ替わるのだが・・・。




3日目

墨によるモノトーンでの模写・・・補色関係の色とか
下描きは当たりのみで忠実に模写など出来るはずなど無いけれど
兎に角、此処まで描いてきた・・。





 

2016年9月24日土曜日

無能人

優れた能力をもった人と比べてみた場合に、その能力が無い人を無能の人という。
そこで、思ったのは「その」のことなのだ。そのが無ければ能力が何なのか分からない。
まったくの無能の人はいないわけで、たとえ寝たきり老人だろうが生まれたばかりの赤ちゃんだろうが何かしらの能力をもっている。
つまりは「その何かしら」の能力に優れた人がいるというだけであろう。だが、一般の組織社会ではその優れた人がリーダとなって組織が働いているが、その能力の無い者は排除されるか、組織の底辺のあたりで働かざるを得ない。
また、現代社会のように派遣社員だとかパート・アルバイト人は、また組織の中の人と少しずれていて適度の能力さえあれば報酬は少ないが組織の歯車の一つとして組み込まれ、働ける。(しかしそのような職場にはリーダが居ない所が多い・・まかなえればそれで良しとする無責任である)その助っ人的な人たちの中には組織人と同等あるいはそれ以上の能力が有る者もいるのが面白い。
有能なリーダの中には無能な輩もあり、自分が実は無能だと云う事に気がつかない可哀そうな人も存在するけれど、そのまた上のリーダが同じであれば、その組織はいずれ消滅するであろう。が、それぞれが定年になるまでの組織の存在くらいにしか考えていないので、より良くしたいのは家庭であって自分が世界という社会の中で働いている組織では無いと思っているから、どうしてもその能力を傘にして凌ぐほかないのであろう。
兎に角「その」が重要での有能・無能でしかないということだ。
本当に有能な人は、おそらく自分自身が本来は無能だという自覚をもって組織の中で演技出来る人ではないかと、なぜなら能力なんってモノは自分で決める事でも無し、自然界においてはそのような能力の物差しは何処にも無いのである。
人間はたかだか「考えて仕事が出来る」それだけだろう・・・。
「無常」とか「無意識」とか、無能もそうだけれど、「無」とかあるいは「不」とか「非」とか付けられる言葉が若いころからどうしてか妙に意識の一部にへばりついているのである。




上記の写真は先月、山梨県の昇仙峡へ行った時に撮影したものです。
そういえば、一昔前に「無能の人」という映画がありました。
つげ義春の漫画が原作で、河原で拾った石を売る無能な男の話です。
昇仙峡に行ったのは初めてで、観光写真などで観た感じとは少し違い
わたしが驚いたのは眼前に観た巨大な石でした、いや岩と云った方がいいかな・・
ここでは石を売る店が沢山ありました、しかしそれは水晶ですから
とうぜん映画「無能の人」とはかけ離れた人たちでした。

河原にある石を砕いて拡大し、その写真をくりぬいて合成すると上記の
現代美術のような表現になりそうです。
無能な石と有能な石の違い?





 

2016年9月10日土曜日

鍛錬

フェルメールの絵画、「レースを編む女」(24・5×21㎝)の図版を元に水墨で模写を始めた。

それを観ていると・・

純粋に目が喜ぶということ、それを描くことは同時に眼の鍛錬となる。

その先に水墨の可能性(抽象的技法)が見えてくるような気がしている。



色紙サイズの画仙紙に原寸大で描きはじめました。

模写というのは実際の描かれているモノがどういうものか
分からず想像で描くのですが、このフェルメールの絵が
なぜ私の眼を喜ばすのかが見えてくるようです。



 



2016年9月4日日曜日

空機



よく「くーきを読めない人」などと言われる。その場の雰囲気をつかめない、相手のことを察してあげられないなどといったことだろうか、あまり使ったことがないが、おそらく良い言葉だと思っていないからだろう。ただ、一般社会にそのような言葉が現われたことには一目置いている。(そういう意味ではわたし自身も空気を読めない人間だと思いたい)
おそらく漢字で書けば「空気」だと思うが、実際は何もだれも表現していない、なにげなくその場がつくられている状態であることからすると、本来は空の機(はたらき)ということだと思った。しかし、実はその「空気を読めない人」というのは本人が空である処にいる為に理解できないのではないかとも。そういう空気を読めない人がいることは兎に角迷惑だということである。
では空気が読める人はどうだろう。自分が自分であることに気がつかない、また自分とは何かとか考えた事などなく、その「場」の中に留まる普通の人たちは自分らがその場の雰囲気をつくっていると思っている。が、それは共同幻想という安心したいという感覚から起こる錯覚ではなかろうか。
そして、そんな空気を読めない少数の人は、こんな世界とは「おさらばだ!」といって簡単勝手にこの世を捨ててしまったりすることもある。そう、自殺するのである。それは狂気でも、うつ病でもない当たり前の空の人間の行動なのである。
本来、自分が欲する「空機」であれば、その場の雰囲気を読めない人がいてもその場から排除されることはないと思うのだが、なかなか社会というのは生きずらく難しい。だからといってまだ逃げ出すわけにはいかない。

「人ノ人タル人ハ、人ヲ人トス。」「人ノ人タラザル人ハ、人ヲ人トセズ。」という言葉が江戸時代の教育勅語にあるらしいが、
この言葉を何度も読んでいるうちに「差別」ということを考えてしまった。いったい人とは何をもって人とするのだろうか、やはり心というものだろうか・・・。自分には心が自分の中に在るとは思えなく、逆に外に現われるのが心だと。そう感じる今日この頃である。
まあ、空気を読むという事自体が実は至って難しいことを考えれば、そうやすやすと言葉には出来ないものだと思う。 (「空機」とは自分がこうあらねばと、創作した言葉です)

いつもブログを書いた後に思うのは、言いきれていない。当たり前だが、そういうものだろうと思うしかない。
重ね描き。 がいつか真理のようなものに近付ければということを思っていることにしておいてください。

2016年9月2日金曜日

眼の欲望

どこのだれがブログを訪問したのか、ありがとう。「リアリズムの原点」がアクセス・トップ10に入ってきた。ちょっと恥ずかしい昔のコメントだがスパーリアリズムという写真に挑戦しているような(だけではないにしろ)・・・には全く今はどうでもよく、自分にとって大切なのは紙の上に墨で描くという行為そのものである。

「見えるということ」それは目を開けて見ることと目を閉じて見えることだが、片方は眼球というレンズを通じ見、もう片方は眼球は何かしらを見ているのだが、瞼で閉じられているため外を見ることが出来ないけれど見えるモノがあるということだ。いい例が夢であるが、たまに瞼を開けていても夢のような感覚で見える物事もある。また何かに極度に集中している時のことを考えると実は何も見ていなかったような感覚であったことに思い当たる。
夢が現実か、現実が夢かなどといった老荘思想の言葉も、夢も現実で現実は夢などではなく夢が見えるということだ。
お化けを見たことの無い自分だが、夢の中で見ているのはお化けである。お化けとコミュニケーションなど出来るわけがない。お化けが見えるという人のことを疑うことは馬鹿げた話で、それよりお化けと会って話をしたとかいうのは単なる妄想か作り話ではないかと思う。自分の場合は怖がりである為、夢の中で恐ろしい化け物が出てくるとどうしてか意識が働いて夢を覚ますようしむけるようだ。だから、たとえ現実でお化けが見えたとしても夢にしてしまおうと無意識に精神作用が起こるのかもしれない。
しかし、近頃ようやくお化けが少し怖くなくなってきて、現実にお化けを見たいという思いがある。
ポケモンGO!(やったことがないので詳しくは知らない)ではないけれど、お化け(怪物)探しに夢中になっている人々(特に子供たち)には、殺伐とした合理的現代社会では、日常生活において、お化けすら出会えない反動に欲望の輪がかけられているようにみえる。それこそ現実の大衆の一部である純粋な精神を動かす恐ろしいビジネスじゃないかと感じたが・・・社会のルールを決める道徳や理性の境目はどこにあるのだろうか。
人っ子一人いない森の暗い闇の中に迷った時の恐怖を思い起こせば、ちょっとした曲がった小枝や石ころも妖怪に見えること。またそれとは逆の花園のような場面では天使が現われたりする。それは、科学的にただの木の枝や昆虫であっても、その人にとってそこに見えるのはお化けや、天使そのものだろう。
そして「美」も同じように現実にそれが見えるのではなく、見えるものに美を感じる心があるということのように思う。
ただ、その美を感じる心の鮮度はだれにも絶対に保証できない悲しさがある。