2016年11月3日木曜日

写実について


フェルメール「レース編みをする女」  水墨模写(部分拡大)     由三蔵 画

 
何かしらで選んだ対象を眼に見えているよう忠実に描き写す行為が写実画というものだろう。ただ、自分はそれを白黒の水墨で描いているので写実画とも云えないが、それが自分にとって何故水墨なのかの意味説明はしがたい、一個人の感覚の好みが和紙と墨によるもとでも・・・。
まず考える始まりは、やはり「見る」ということはどういうことかということである。
自分の外側にある景色(描く対象のこと)は、どのようにしてそこに現われ、自分の視覚(眼)から入ってきて脳に伝わり手を働かせるのだろうか。
という考えは「見る」といことが対象が眼から入ってくるという受動的なこととして科学的には考えられるが、その逆の経路もなければ「見る」という能動性は起こらない。つまり、脳から眼へ、そして対象へと向かう何かである。そこで立ち現われてくる現象を描くのが写実ということのようであるけれど、そこで自分と対象とを行ったり来たりする何かが問題になる。
凄い写真を越えたような写実画を描く作家さん達の言葉を読むと、さまざまな心の形容は十人十色の個性はうかがえるけれども脳のシナップスの流れの方向を逆にして、脳から眼の網膜へ眼球のレンズへ、そして外の対象へ向かう回路を思索した言葉は読んだことがない。まあ、そんなことは人の経験的科学の枠外かもしれないが、自分の知覚が想起したことを消すことはできない。
何かを「つくる」という行為に、なにかしらの作為が働くのはそのあたりに根拠がありそうなのだが・・・。
それにしても、現代写実作家さんは比較的簡単に自分の眼を信じる方が多いようだと思った。というか優れたカメラの眼と言った方がいいのかな・・。(そういう自分もそうだが、視覚するということの哲学はそう簡単でないと考える今日この頃なのです)

チョット思った。
写実とは関係ない現代アートの批判だが。
まあ兎に角、アートという名目での視覚の騒音のような作品のゴミ?は私のように最小限にし、量産、大作はやめてはどうかと・・・。
もう、これから無いだろうが、街の橋や建物などの一角をシートで覆い尽くした様な現代アートの作品は哲学論一冊あれば足りるのではないか・・・と。

「凄い写実画を描く若手作家たち!!」というタイトルの美術雑誌を読んで自分が思ったことを書いてみた。



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