なにかを観たり聞いたり味わったりした時に、「美しい」とか「美味しい」とかいったこと以前の本質的なことを意味している言葉が「美」だという考えがあった。それはやはりそのたった今、石垣りんの一編の詩を読んで感じた、心が揺さぶられた、美しい鬼に出会ったような感覚にもあてはまる。
普遍的などという言葉はあまりにも崇高過ぎて、現実的でないので使いたくないけれども、なにか一つのものを求めてあれこれやってきて、まあ年食ってくると、しかたなくそのような強烈な刺激に対しては普遍的とでも言いたくなってしまうのである。
このブログ「美の周辺」という2010年に始めたタイトルだが、我ながら的を得ているのではと、周辺とは美が伝播してくるノイズのようなものを受け止め、その場しのぎで立ちあらわれ来る感覚を表現しているようなことになると思った。
美は相対論的にあるのではなく主観的普遍性にあるといことだ。そして「どうせ、わかるはずがない」という態度を抹殺していかないと美しいものを観たり聴いたりしても「美」の真理に近づく事もできないだろう。
兎に角、本やメディア、情報などの言葉や映像でしか出会えない高度で素敵な経験も確かに好いが、それにも増して身近で直に触れ合えそうな人やモノの魅力にはかなわないだろうという、自分が知覚できるような欲望は消し難い。その心は少しダリのような偏執狂的?ではあるが、なんとか画く事でカタチにしたい・・・そう思う今日この頃である。
さて、今日は三島パサディナ美術館「ゆかりの作家たち展」の搬入に行ってきた。
小さな美術館に約70人の作家の作品が並ぶ訳だから、肩を並べるように所狭しと何かと窮屈な展示になりそうである。まあ、それもいいだろう・・・・・。
この展覧会も今年で最後になるというので寂しいが、地方の小さな個人美術館の経営もなにかと苦労が多かろう。
ほとんどの作家さんは一人1点のようだが、出展の誘いを受けた時に新作2点出させてくれるなら、という約束どうり「フェルメールの模写」色紙大と6号「青鬼娘」を搬入させていただいた。
館長自ら肌寒いロビーで受付をされていて、この方は本当に美術が好きなのだろうと妙に心が熱くなった。
美しいとか醜いとか、優れているとかいないとか、好いか悪いか・・・・・何を観るかは人それぞれだが、それぞれの方々がそれぞれの作品を観て、そこに個人的に立ち現われる感覚は何なのかをも見つめてほしいと思います。
昔、映画評論家の淀川長治さんのように、美術って本当に好いですね・・・・・と云っていただくと嬉しいです。
「青鬼娘」 |
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