2016年8月17日水曜日

お盆

現在、老人介護施設で生活してもらっている母、94歳になるがボケてはいないが一人で生活できる身体ではない。
先日、月に一度の眼科への診察に連れて行った時のことだ。
お盆の事をやけに気にしているようだったが、「仏さま、お鐘楼までは出来なかったけれど、お盆セットを買ってお供え物もしてきたよ」と言ったら少し安心したようだった。
が、思いきれない母は「わたしに休みをとらせてくれないか」と言ってきた。休み?とはなんだろうと、仕事もしていないし生活はすべてまかなってもらっているではないか・・・。
わたしは、つい簡単に毎日休んでいるようなものだと解釈し、鼻で笑ってしまったことを後悔いている。
実は母にとって介護施設で管理され生活していることが、現在の自分の仕事だと思っているのではないかと、さまざまな息苦しさの中から自分の存在をつくりだそうと考えているのではと、そして生きること自体が母にとって仕事なのだろうと思った時に目頭が熱くなった。
なにもしてあげられない私自身ははがゆいものだ・・・・・しかし本当は何もかも、自分の事も私の事も、母は分かっているのではなかろうかと感じた。

では、自分の仕事とは何だろうと思った。蓄えのまったく無い自分にとってアルバイトで生活費を稼ぎだすのもその一つだが、生きることが仕事だとすれば、その中心をなすのは、やはり一時も脳裏を離れない美術の世界も含め、そのすべての今を生きている世界の中心に精魂を込めていくことこそ仕事だろうと思った。
この暑さで絵筆を持つ手が乾き始めているが、盆過ぎて涼しさがやってきた。やはり自然はわたしの鏡だろうか・・・。
被写体の準備(下図にする資料)はまだまだだが、「女の習作」ではなく「女」という題の作品をめざす。また、植物も描きたいという思いも生まれてきている。
ここ何日か暇を見つけて、面相筆も新たに疲れない握りやすいグリップをつくったり、オリジナルの毛筆もつくってみた。

兎に角、使い心地が楽しみだ。


「ものごとはわれわれが認識するようにある」・・・(純粋理性批判より) カント


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