2016年8月27日土曜日

画工 杉浦日向子

この呼び名はおそらく江戸時代に絵描き一般のそこいら界隈にいるような、絵師などとも呼べない、技術だけの「でくのぼう絵描き」を指していたような気がする。
明治二十二年九月十四日に二十五歳で亡くなった風景画家がいる。その名は井上安治。その絵師(画工)に思いをよせた漫画家がいる。
今は亡き杉浦日向子である。彼女は存命漫画家時代に肩書を「画工」とつけていた。おそらく、井上安治の面影から付けたのだろうと、杉浦日向子全集・第二巻に入っている「YASUJI東京」を読んで思った。
・・・安治は目玉と手だけだ。思い入れが無い。「意味」の介入を拒んでいるいるかのようだ。(影5/12)で語っている。
久しぶりに読む杉浦日向子漫画だが、どうしてこんなに透明で初々しい感性の漫画を描く事が出来たのだろうと思った時に、自分がこの人の作品がどうしてこんなに好きなのかが分かったような気がする。決して漫画の絵の技術が優れている訳じゃないし、物語が面白い訳でもないが、このような漫画が描ける人はもう二度と現われないだろうと思うくらいの、それはまるで優れて味のある人形芝居でも観ているような表現の漫画である。
何かで読んだ記憶だが・・・わたしのような漫画を描いていると、手間暇ばかりかかってとても経済と折り合いがつかないから漫画家はやめた。といったようなことを書いていたと思う。しかし、そんな生きている間に原稿料と折り合いのつかない手間暇かけた彼女の作品も、そのいくつかはおそらく漫画芸術の域までいって歴史に刻まれることになるだろう。

絵に思い入れや心などといったものは案外どうでもよく、ほんと!目玉と手だけでいいのだろう・・・それは触覚と視覚との統合、あるいはその行為の繰り返しの積み重ねなのかもしれない。

初めて自分が杉浦日向子の漫画に出会ったのは今から三十年前くらい。初期の作品集「ゑひもせす」(酔いもせず、とかいう言葉の意味だとも・・彼女が、お酒と蕎麦が大好きという事がまた一段と自分の身近に共感を覚える)という1983年初版の本だったが、兎に角、そこにはすでに天才が現われている。昨年、アニメ映画にもなった「百日紅」や「百物語」といった後期の傑作に繋がっており、日常にお化けが観えたという彼女。その作品のリアルさはとうてい真似できるものではない。
普通の漫画しか読んだことの無い人、また漫画が好きでないという人にも味わってもらいたいと思う。その絵(はじめはオリジナルというより既に使われている様々な漫画家の絵のぎこちない真似だが・・)の密度の濃さとセリフとがほぼ同時にイメージをつくりだす妙な感覚は漫画というジャンルを飛び超えていくにちがいない。

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