2016年12月17日土曜日

ごあいさつ

今年も残りわずかとなりました。
年末恒例の当美術館「ゆかりの作家たち展」を開催いたします。今回は約70名の作家たちの作品を展示します。
皆さまお誘いあわせのうえ、ご高覧賜りますようご案内申し上げます。

・・・と館長の言葉。

今日から約一週間、三島パサディナ美術館での展覧会が開催されます。
出展参加したものの、正直いいますと、この美術展の主旨たるものも良く分からないのですが ^ ^) 兎に角、美術の発展(?)の中に小さなザワメキとなればいいな~などと気楽に考えている次第です。

次の作品の発表予定は未知だが・・・・・・。
わたしの毎日はほとんど水墨絵画に専念している。(なんて、セザンヌのように・・)
とはいっても、現在、最低限の生活を維持するために描く事に専念できる時間は限られてる。それはしかたのないことだが、少しはそれもかんがえなければならないと思い始めている。

まだモチーフも決まらずあれこれ迷い、その対象となりそうなものを見つけ出すことは画く事と同じくらい重要なことで、あたりまえだが、ただ美しい眺めの景色ではモチーフにはならない。それを決めるのは自分の全ての感覚以外のなにものでもない。
わたしの言う景色とはただ自然の風景というのではなく、人の顔、身体、物質、などに現われている外観のことである。
しかし日常出会う人やモノ、また美しい風景に感動したりすること抜きにはあり得ない事も確かではないかと思う。
そのモチーフとなる景色が決まり水墨としての構想が立ち上がって来た時から描く行為が始まる。一か月二か月と描き続けることに精神的に耐えうるモチーフでなくてはならず、対象を見つめる時に眼球からもう一つの手が伸びて触れるような感覚を想像できないとダメなのだ。水墨で描き上げた絵が、なめらかな明暗による写真的表現の描写であれ、知覚できうるものの実現の探求のプロセスであれ、そこに詩が無くてはならないと考える。それが今のわたしの水墨絵画の道だと思っている。
こらからどのような技術的変化が現われるかわからない。なぜならフェルメールとセザンヌの芸術にはまだまだ学ぶところがたくさんあるからだ。それは「世界を観る眼の哲学は止むことはない」とでも言っていいと思う・・・そのことばにある。
ひとつ、またひとつと作品を発表していくごとに、リアリズムへの欲望の乾きが生じている。それは本当に生々しい命の感触を表現できる対象に出会うことからはじまるだろうと考えるが、そう簡単に思うようにはいかないものだ・・・。

「セザンヌ絶対の探究者」という画文集が手元にある。
そこには「・・・・私は私自身を真実の上に当てはめて写したいのだ。私とは何なのだろうか。真実の魂にまで到達すること、真実をあるがままに表すこと。」という哲学的な言葉が表紙に書いてある。
自分はいつも、何なんだ、この言葉は?とため息をついている。



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