2016年8月24日水曜日

盆が過ぎ台風が過ぎ、涼しさが増してくる。
子供のころから味わっている夏の醍醐味である。
しかし、春が過ぎてもモノ悲しさはないけれど、夏が過ぎると妙な寂しさがある。
その寂しさが案外自分は好きなのかもしれない。

偶然なのかもしれないが、いままで夏が誕生日の女(ひと)になぜか多く恋をしている。
今の家内も八月二十一日が誕生日なのだが、どうやら夏生まれの女性は何かカラッとした心地悪いものと嫌味をもった性格と優れた臭覚の持ち主であるようだ。だからといってそんな人たちを分析しようとは思わない。たまたまの偶然でいいのだ。

ただ、最近思うのは人の「心」というどこにも根拠が無いのに平然とはばをきかせていることに疑問が生じていることだ。
人を人として決めている最大の原因がそこにあることは実は誤解あるいは錯覚なのではないかと、それは自分の外にある世界、その世界に包まれた中で自分がつくりだしている感覚のことであって、実は心とは空っぽの存在のように思われる。つまり、そのような心の器や箱のようなものは無くてもいいというか、そのほうが見えてくるリアリズムに触れられるような気がしている。しかし、そう簡単にはいきそうもない自分の根強い心という植えつけられた概念を剥がしていくことは・・・。

兎に角、日常が写しだす経験の中でしか得られない認識だろう。
確かなのは感覚とか情念とか感じるのは自分だが、すべて外から入ってくるものがあってのことである。
涼がわたしに絵筆を握らせるのも・・・心の中のことではないのではないかと。



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