2016年12月10日土曜日

こころのこり

朝日新聞朝刊の「折々の言葉」に、心のコリ(嫉妬や憎悪などの情念)をほぐすのも芸術の役目だろう。というようなことが書いてあった。
もちろん、それもあるだろうが、なにも芸術などでなくとも趣味や娯楽、子供やペット、優しい微笑みなどなど沢山あるように思う。まあ、そのコリ具合にもよるだろうが・・・・。ではその心とはいったいどこに存在するのであろうかと。自分の意識のハタラキによって立ち現われてくるものだと思っているが、身体の痛みとか肩こりとは違い、やっかいな存在でありまた人にとって不可欠なものである。しかしどうもその心とは自分の身体の中にあるとも考えられないのだ。そして、容易くは手に入らない感覚の領域、そのあたりの真理の探究にこそ芸術の役目を感じる。
わたしに画を描かせる心とはそのようなものであり、美術のチカラではないかと。

「あなたの頭脳が想像しうる最も驚異的なビジョンは、レオナルドかフェルメールの名工的才能でもって描かれうるのだ、ということを知らねばならぬ。」
「もしあなたが、解剖学を遠近的技法を、デッサン技法を、そして色彩に関する科学を、学ぶことを拒むならば、私はあなたにいわせてもらいたい、すなわちそれは天才の徴候というよりむしろ怠情の徴候なのだ、と。」
「まじめに・・・・・。ふまじめに描いてはならぬ。」
「レース編みの女」はこれまで、平穏無事の絵のように思われてきましたが、しかし私にとっては、もっとも激烈なもののなかのひとつである。美学的な力によって支配されているのであり、その力に対しては、ただ最近発見された反陽子のみが肩をならべることができるのです。」
・・・「天才の日記」サルバドール・ダリ著・東野芳明訳より(1974年1月20日初版発行)

ダリの偏執狂的方法が、じつは人間のさまざまな学問や実験、また肉体に関する生物学的革命の観念から紡ぎだされて来た芸術だということを、若き頃に購入した(こころのこりの)この本を再読していて感じた。

水墨の絵を発表するようになってから、よく聞かれることがある。
「なぜ水墨画でなければならないのか?」と、つまりはたぶん写真のようにリアルに水墨で描いているからだろうと思うけれど。
いつもブログで時折思いつきで書いてはいるが、いつもうまく言葉で言えているとはいえない。
きっと、ようやく自分にとって身体に馴染むような絵画の世界を見つけ出すことができてきたからだろう。
「画家よ、きみは雄弁家ではないのだ!だから黙って絵を描きたまえ!」とダリの日記の言葉に叱られそうだ。^^)

こころのこりはこころのこりのあわれなのか・・・・・・・・。



画題 「青鬼娘」 (部分)

水墨画

由三蔵



写真で撮った画なので雰囲気がかなり異なっています。
是非、実物を観に来てください!

この度は青墨で描きました、濃淡の美しさを見て欲しいと思います。





 

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