2016年8月20日土曜日

笑う判断力批判

芸術作品の耐久性に拘ることに意味の重要性あるいは価値をもってくる作家の思考には、ただの石ころとダイヤモンドとの価値の違いといったことに似た思考の感覚があることは、芸術作品を心が物質であるように捉えた、行き過ぎた作家の「おごり」以外のなにものでもないと思うのである。
生き物は必ずいずれ早いか遅いか死ぬのである。死ぬ前に冷凍保存した肉体を何世紀か後に甦らせるとか、核シェルターで生き延びるとか、何か永遠性みたいなものに憧れる気持ち自体がいやらしく思えるのだが、生物の肉体も含め物質という価値に普遍的なものを求めるのはどうしてなのかといった疑問だけが浮かび上がってくる。そんなことなら死後の世界があるかどうか解らないけれど、そんな魂の存在を妄想する方がましだろう。
物質にも心の価値をもってくるとすれば、疑いつつ認め、認めつつ疑うこと、心の証明はそれ以外にないのではなかろうか。
作家が作品のマテリアルにどのようにこだわろうがどうでもいいけれど、こうあらねばならないとか、出来もしない清貧が美徳のごとくに自己の作品に責任をもてなどと間違っても他者に云わないことだ。
「理念」そのものが真の実在に至るという、恐ろしい言葉があるが、その言葉をどのようにとらえ考えるかが問題となるだろう。
自分はけして間違ってはいないなどという信念などは、理念とは程遠い・・。
何が残ろうが何が無くなろうが、決めることが出来るのは人間たちだけではないことを忘れてはいけないだろう。
いまさらながら、紀元前の哲学者の言葉に意志の判断に向かう道筋を再確認する。
「汝自身を知れ」・「美は美以前にある」・・・・ソクラテス・プラトンだが、いまだ色あせず現代の哲学の中にある。

テレビを見ると、その画面にタレントが田舎の町を訪問しそこの住民にちやほらされていた。「本物に会えるなんて夢いたい」だとか言われていたが「テレビ」だけの有名人であること、テレビを見ない人には知らないただの人である。何が優れているとか魅力があるとか全てが「テレビ」が決めたことに視聴者は大小あるが左右される。そして、子供たちは将来有名人に成りたい夢を見るのである。
子供たちに夢や希望を与えるだとか、皆さんに恥ずかしくない行動を取らねばいけないだとか、美辞麗句がとびかう「テレビ」だが、その裏側で舌を出して視聴者を馬鹿にしている姿は見たくないものである。
そういえば近頃、プロ野球中継が放送されなくなったが何故だろう・・・・・。
まあ、曖昧な価値基準の数値を追いかけるテレビとはそんなものだが、確かに真面目な番組もあるとは思うが面白くないかもしれない。
今夜、食事中にバラエティー番組を観ていて気分が良くなかったので、ちょっと「おごり批判」をしたくなった次第である。

・・・しかし、他者批判とはつまらないものだ。

やはり、自分自身の問題を語ろう。
どうしてこんなに見たモノの再現が気持ちの良いと感じられるか?という過去の名画に出会った時の自分の憧れと芸術観である。それは手で描くということの絵筆に潜む描写の不思議の実感に近づきたいといものだが、言うは易し行うはがたしである。
その自分が掴んだ妙なる美をなんとかカタチにして残したい・・いや、そんなことじゃないだろう。
ただやるべきことが、そこにあって、それをやること。それがたまたま描くことだった。
渡された何らかの大切な命のバトンを掴んで次の命に伝えることができればと、この命だけでは見えない・・・・・透明なゴールを目指す!(中島みゆきの詞をちょっと借りて・・)

今、リオ・オリンピックが盛況である。
その昔、日本のメダリストのマラソン選手が走ることに疲れて自殺した。
だから、どうのこうのではないが、そんな命のバットンもあるのだと記憶の片隅から現われた。



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