2016年9月2日金曜日

眼の欲望

どこのだれがブログを訪問したのか、ありがとう。「リアリズムの原点」がアクセス・トップ10に入ってきた。ちょっと恥ずかしい昔のコメントだがスパーリアリズムという写真に挑戦しているような(だけではないにしろ)・・・には全く今はどうでもよく、自分にとって大切なのは紙の上に墨で描くという行為そのものである。

「見えるということ」それは目を開けて見ることと目を閉じて見えることだが、片方は眼球というレンズを通じ見、もう片方は眼球は何かしらを見ているのだが、瞼で閉じられているため外を見ることが出来ないけれど見えるモノがあるということだ。いい例が夢であるが、たまに瞼を開けていても夢のような感覚で見える物事もある。また何かに極度に集中している時のことを考えると実は何も見ていなかったような感覚であったことに思い当たる。
夢が現実か、現実が夢かなどといった老荘思想の言葉も、夢も現実で現実は夢などではなく夢が見えるということだ。
お化けを見たことの無い自分だが、夢の中で見ているのはお化けである。お化けとコミュニケーションなど出来るわけがない。お化けが見えるという人のことを疑うことは馬鹿げた話で、それよりお化けと会って話をしたとかいうのは単なる妄想か作り話ではないかと思う。自分の場合は怖がりである為、夢の中で恐ろしい化け物が出てくるとどうしてか意識が働いて夢を覚ますようしむけるようだ。だから、たとえ現実でお化けが見えたとしても夢にしてしまおうと無意識に精神作用が起こるのかもしれない。
しかし、近頃ようやくお化けが少し怖くなくなってきて、現実にお化けを見たいという思いがある。
ポケモンGO!(やったことがないので詳しくは知らない)ではないけれど、お化け(怪物)探しに夢中になっている人々(特に子供たち)には、殺伐とした合理的現代社会では、日常生活において、お化けすら出会えない反動に欲望の輪がかけられているようにみえる。それこそ現実の大衆の一部である純粋な精神を動かす恐ろしいビジネスじゃないかと感じたが・・・社会のルールを決める道徳や理性の境目はどこにあるのだろうか。
人っ子一人いない森の暗い闇の中に迷った時の恐怖を思い起こせば、ちょっとした曲がった小枝や石ころも妖怪に見えること。またそれとは逆の花園のような場面では天使が現われたりする。それは、科学的にただの木の枝や昆虫であっても、その人にとってそこに見えるのはお化けや、天使そのものだろう。
そして「美」も同じように現実にそれが見えるのではなく、見えるものに美を感じる心があるということのように思う。
ただ、その美を感じる心の鮮度はだれにも絶対に保証できない悲しさがある。


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