2016年10月19日水曜日

不来方の

啄木の「一握の砂」のなかにある歌。

不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心・・・というのがある。

その歌をわたしが知ったのは何とお恥ずかしい話だが夏目雅子主演の映画「時代屋の女房」の盛岡での一場面であった。
現在、六十歳を超えた自分が、空に吸われし心があるかどうかわからないけれど、何か自由にときはなされたい気持ちに成りたい時に浮かんでくる歌である。
この歌の「不来方の」(こずかたの)がずっと気になっていたが調べることも無かった。勝手な解釈で、ずっと「何かかだれかか来ないものを待っている」ような気持かと思っていたのだが、最近、調べてみると盛岡城のことらしい。でも、それだけではあまりに簡単すぎる。作者がどのような気持ちを歌ったかは解説はされているものの、この歌の美しさは人さまざまにあるだろう。
「不来方」とは、やはり未来であり過去であり、空に吸われし十五の心は「たった今の永遠」のような歌にわたしは思うのだ。
天才、啄木は十五にして無常を会得したのだろうかと・・・。
ふと、それはフランスの詩人ランボーに重なってしまった。
(これは思索の重ね塗りのように20世紀の哲学者、ウィトゲンシュタインの言葉をも思い起こすし、マルセル・プルーストのテクスト・・・などなど、さらにはいつものこと道元の正法眼蔵に繋がっていく、妙なことだ。)

そうなんだ、わたしの好きなも全てはどこかに何か中心を持って磁力の渦のように多次元で関係し合っているではないか・・。
さまざまな五感が受動するカタチの中から現われると自分が考える理念の美。そのような美は苦痛を癒してくれるというが・・・
・・・・やはり本当だろうというといことを感じる今日この頃である。

ならば、わたしも修練してきたささやかながらの絵を描く技術を持つ一美術画工として、水墨を描く事で生をまっとうしたいと思った。自分の作品がだれかの苦痛を癒すことができれば幸いであろう。(いつも自分はこのようにして自分自身を励ますのであります ^.^)
月の裏側にある魅力的な狂気や、原始の呪縛より、日常の凡庸であたりまえの世界の手触りの魅力の方に、今の自分は魅かれているようです。

12月のクリスマスの週に三島パサディナ美術館での展覧会に二作品を出すことが決まりました。
今現在進行中の模写も、いち水墨の作品として観てもらおうかなと思っています。

そうそう歌といえば、若いころからずっと大好きだったボブ・ディランがノーベル文学賞に選ばれました。
そういう時代になってきたのかな・・・・・・時代は変わる、風に吹かれて・・・・・な~んてね。
しかし、ノーベル賞協会ではいまだボブ・ディラン本人と連絡がとれないということらしい・・・・ディランらしい、らしいがいいな~。

今夜、ディランの「DESIRE」を聴いている。
思えば、ディランの歌にはハッピーなものが無い。いつも、はにかんだような表情で、切ない声で唄う歌には、やはり無常を感じずにはいられない・・・。




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