優れた能力をもった人と比べてみた場合に、その能力が無い人を無能の人という。
そこで、思ったのは「その」のことなのだ。そのが無ければ能力が何なのか分からない。
まったくの無能の人はいないわけで、たとえ寝たきり老人だろうが生まれたばかりの赤ちゃんだろうが何かしらの能力をもっている。
つまりは「その何かしら」の能力に優れた人がいるというだけであろう。だが、一般の組織社会ではその優れた人がリーダとなって組織が働いているが、その能力の無い者は排除されるか、組織の底辺のあたりで働かざるを得ない。
また、現代社会のように派遣社員だとかパート・アルバイト人は、また組織の中の人と少しずれていて適度の能力さえあれば報酬は少ないが組織の歯車の一つとして組み込まれ、働ける。(しかしそのような職場にはリーダが居ない所が多い・・まかなえればそれで良しとする無責任である)その助っ人的な人たちの中には組織人と同等あるいはそれ以上の能力が有る者もいるのが面白い。
有能なリーダの中には無能な輩もあり、自分が実は無能だと云う事に気がつかない可哀そうな人も存在するけれど、そのまた上のリーダが同じであれば、その組織はいずれ消滅するであろう。が、それぞれが定年になるまでの組織の存在くらいにしか考えていないので、より良くしたいのは家庭であって自分が世界という社会の中で働いている組織では無いと思っているから、どうしてもその能力を傘にして凌ぐほかないのであろう。
兎に角「その」が重要での有能・無能でしかないということだ。
本当に有能な人は、おそらく自分自身が本来は無能だという自覚をもって組織の中で演技出来る人ではないかと、なぜなら能力なんってモノは自分で決める事でも無し、自然界においてはそのような能力の物差しは何処にも無いのである。
人間はたかだか「考えて仕事が出来る」それだけだろう・・・。
「無常」とか「無意識」とか、無能もそうだけれど、「無」とかあるいは「不」とか「非」とか付けられる言葉が若いころからどうしてか妙に意識の一部にへばりついているのである。
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