人は生きている限り何かが見えている。眼を閉じていても瞼の裏側を、眠っていても夢を見る。
だが、それは「見ている」のではなく「見えている」のだろう。
では「見ている」とは何だろう。
自分が意識して見た時のことだろうか、それとも見えている対象が自分に働きかけて「見ている」という意識を起こさせるのだろうか・・・まだまだ考えれることもあるが、どのような場合でも自分が見ていることで他者が見ている、見えていることとは厳密には異なっているということ。視覚は、つまり味覚や触覚、聴覚、臭覚といった感覚から生まれる、総合であるということで、モノが見えるということは、それらの感覚を抜きにしては考えられないといことになるのではないかと思えてきた。
フェルメールの模写をしていて感じた、その見ているけれど、見えない感覚のモノをどう描くかという面白さ・・・見えなくても描く、それはまるで時間が止まった空間に現われる何かのような妙なるモノを見るということのようであった。(霊など見た事無いけれど、上手く言葉で表現できないが、描きながらゾーとするような、でもチョット心地よい感覚を味わった)
さて、この模写が終わったなら。つぎに美しい鬼が描けそうな気がしてきた。
写し間違えもかなりあるが、もう少しである。兎に角、描き始めて延べ約一月半になるがこんなに長く深く一枚の複製絵画を見ると云うのは初めてだろう。
(拡大画像) フェルメール 「レースを編む女」 水墨模写 由三蔵 画 ・ |
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