2016年10月14日金曜日

フェルメール模写 2

フェルメールの絵画、現在模写している「レース編みをする女」の幾つかの複製(写真で撮られたものの印刷物)なのだが、どれもきっと本物を撮った写真だと思うけれど、どれもが若干異なった画像で一番本物に近いのはどれだろうと思った時、考えたことは。
では自分が美術館で視た本物(模写しているものとは別の絵画だが)は何だろうと。その視た時の絵の照明、自分の眼の具合、その時の場所の状況、などなど思えば、本物を視たことのある絵でも、優れた画集の写真の方が自分の眼より鮮明な画像を捉えているのではと、そうすると本物を視た自分の身体の眼というレンズを通して視覚が感じたこと、それがただ本物を視たということでしかありえないようだと。でも、当たり前だが画集と本物を視た時の感覚は確かに違うのだ。しかし、どちらもそれぞれのリアリズムを感じるのは視覚がつくりだす奥深いイメージの凄さだろう。人は「眼を疑う」とよく言うが、「自分の眼を信じる」とはあまり言わない・・・。
自然が自然として目の前にあり美しく、それを描いた絵が絵として美しくあることとは、どうやら同じ感覚にあるのではなかろうかと思った。ただ、自然と絵とはまったく異なって人の視覚が受け入れる感覚なのだが。そう、これも当たり前のことなのだ、しかしこの当たり前のことを疎かにしていた自分にハッとした。
どうしてか、近頃ものが今までよりも妙に良く視える(現在の近視、乱視、老眼とは別)ようになった気分がする。自分の眼を少しは信じられるようになったということだろうか・・。
この「レースを編む女」の本物は観た事が無い。ますます観たくなったけれどルーブルまでは到底無理である。でも、ありがたいことに技術が進歩した現代、写真機が写した絵の高精密度印刷の複製は模写していると、不思議にある瞬間瞬間の一時だが本物を観て描いているような空機が起こる。これも視覚の妙である。
そういえば、天才画家のダリもフェルメールに傾倒し中でもこの「レースを編む女」の絵が好きで模写などしていたらしいが、凡人でないのは、この絵を視ながら模写している画面にはサイの角が現われる。この天才の偏執狂的表現に恐れ入る。
若いころに買った「天才の日記」サルバドール・ダリ著を最近読み返してみたが、彼は狂人なのではなく優れて頭の良い天才を演じる偏宗教的天才画家だという思いがした。(宗教的というのは彼は天使の存在を本当に信じていると思ったからだ、きっと幽霊が視えた人だったのだろう・・・)




水墨によるフェルメールの模写

由三蔵 画

7日目

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