2016年9月4日日曜日

空機



よく「くーきを読めない人」などと言われる。その場の雰囲気をつかめない、相手のことを察してあげられないなどといったことだろうか、あまり使ったことがないが、おそらく良い言葉だと思っていないからだろう。ただ、一般社会にそのような言葉が現われたことには一目置いている。(そういう意味ではわたし自身も空気を読めない人間だと思いたい)
おそらく漢字で書けば「空気」だと思うが、実際は何もだれも表現していない、なにげなくその場がつくられている状態であることからすると、本来は空の機(はたらき)ということだと思った。しかし、実はその「空気を読めない人」というのは本人が空である処にいる為に理解できないのではないかとも。そういう空気を読めない人がいることは兎に角迷惑だということである。
では空気が読める人はどうだろう。自分が自分であることに気がつかない、また自分とは何かとか考えた事などなく、その「場」の中に留まる普通の人たちは自分らがその場の雰囲気をつくっていると思っている。が、それは共同幻想という安心したいという感覚から起こる錯覚ではなかろうか。
そして、そんな空気を読めない少数の人は、こんな世界とは「おさらばだ!」といって簡単勝手にこの世を捨ててしまったりすることもある。そう、自殺するのである。それは狂気でも、うつ病でもない当たり前の空の人間の行動なのである。
本来、自分が欲する「空機」であれば、その場の雰囲気を読めない人がいてもその場から排除されることはないと思うのだが、なかなか社会というのは生きずらく難しい。だからといってまだ逃げ出すわけにはいかない。

「人ノ人タル人ハ、人ヲ人トス。」「人ノ人タラザル人ハ、人ヲ人トセズ。」という言葉が江戸時代の教育勅語にあるらしいが、
この言葉を何度も読んでいるうちに「差別」ということを考えてしまった。いったい人とは何をもって人とするのだろうか、やはり心というものだろうか・・・。自分には心が自分の中に在るとは思えなく、逆に外に現われるのが心だと。そう感じる今日この頃である。
まあ、空気を読むという事自体が実は至って難しいことを考えれば、そうやすやすと言葉には出来ないものだと思う。 (「空機」とは自分がこうあらねばと、創作した言葉です)

いつもブログを書いた後に思うのは、言いきれていない。当たり前だが、そういうものだろうと思うしかない。
重ね描き。 がいつか真理のようなものに近付ければということを思っていることにしておいてください。

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