2016年11月10日木曜日

哲学断章

哲学というのは、インテリ達のもので学識の無い者には読めないモノだと若いころからずっと思っていた。それでも読みたくて、読めないながらプラトン、ニーチェ、フッサール、カントなどなどと、最近ではウィトゲンシュタインといった哲学書にふれてきた。(近代日本の思想家、西田幾多郎、和辻哲郎、小林秀雄などなどはそれなりに優れた人物とは思うが、哲学であったかどうかは別な思いがある)そのような西洋哲学を解説する日本の哲学者の文章を頼りにしないとまったく読めないところが学の無さで、木田元、鷲田清一、中島義道といった方の本を何冊か読んで多少なり哲学が身近になってきた。けれど、実際の哲学とは何かというのは分かり始めたのが中でも社会批判が「ぐれている」ところの中島義道の各種の本であった。その本の中で彼が師としたのが「大森荘蔵」という哲学者だった。そこで初めて聞いた名の日本の本当の哲学者だといわれている人の本を読みたくなり、まずは入門書として中島氏が薦めているのが「流れとよどみ」(哲学断章)で、ここ数日前にやっと読み切った。
読んでいる途中にブログにもちらほらコメントを書いてはいたが、兎に角、その著書の「はじめに」から、文章が衝撃的で誰かに伝えたかった感覚であり、そのなんというか、その私自身の意識の向こうにあったような知覚を目覚めさせるような深い思索している哲学者の言葉が私の中に入ってきたことにハッと気がついた感動であった。
そのような感動は、例えば人の感覚は十人十色であるというが、その十人十色をまるで思考で科学しているのである。それが何だという決め付けではなく、それをどのように考えるかという指針を言葉で表している。自分にとっていまだかつてなかった、ほんとうにゾクゾクする哲学なのだった。(教養の或る方々はもうすでに御承知かも、そのような事は難解語訳カントも思索していたかもしれないが・・)この年にして目からうろこ、いや、新たな触感であり、もちろん美の周辺に微妙にして大きな変化が生じてきたことは確かである。特に世界は因果関係だと思っていたことに問が生じてきた、それが全てを一元論の「立ち現われ」で括る思考で論じていることにもある。

自分が描いた水墨絵画を一人でも二人でも理解してくれれば幸せだと、本当にためらいのない気持ちが起こっているが、この感覚が映し出されているようなリアリズムを大森哲学を読みながら感じた。
十人十色、人それそれの好みは違う。しかし、そんな簡単な理論では世界はバラバラであろう。また十人十色の共通概念の多さが全てを決めるとも思えない。ただ、そこには互いが映し合う世界があるはずだし、立ち現われる心や恋する身体は虚像ではないからである。

一般生活者の自分でさえがこんなに哲学を身近に感じられるような現在を思うと、哲学が一般生活者の床下によどんでいると気づけば、近い将来、よどんだ時流を泳ぐ私たちに新たな光がさしてくるのではないかという可能性を思わずにはいられなくなってくるが、どうだろう・・。

そんな訳で、やっとのことで「自分で考える」ということの何たるかを歩み始めたようだ。その杖になっているのは、やはり付かず離れずの「正法眼蔵」と、今は「大森荘蔵の哲学」がかなり丈夫そうな杖である。


ところで、アメリカの大統領選も決まった。
政治のことはよくわからないけれど、TVを観ていると・・・・ほんの少しの格差で決まったゲームの勝利のように、その重大さはどこかに消されているように思えてならなかった。




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