2017年1月7日土曜日

つまらない話


わたしの視覚が捉える平面全てを或る意味「絵(画)」と云っても間違いではないように考えます。
写真も書も広告も、テレビに映し出される映像も、絵が動けば動画です。
立体的に見えているモノも視線がとらえているのは平面で、それを脳が立体に調理しているわけで、だから眼を閉じても、何かに遮られても何かしらが視るのでしょう。
そして、眼球自体はたとえ眠っている時ですら絶えず動いているのですから不思議です。
また、視えているのに視えていないということもあります。例えば歩いている時や車を運転している時など特に視えているものは限られるでしょう。さらに、映画やテレビの画面でも気がつかない視えていなかったなどと云います。写真や絵画などでも視える人には視えても、視えない人にはいつまでたっても感覚できないのはなぜでしょう。
そう、つまりモノを観るとは視覚だけではない感覚のハタラキによるものだということになります。
また、御先祖様の霊が見えたり、神が或る時現われたりするのは何も特別な宗教的なことではなく、ごくごくあたりまえの現象なのかもしれません。(わたしは見たことないですが)

さて、つまらない話のついでに・・。
今夜、1988年に買った季刊「銀花」を読んでいました。(なぜ、その雑誌のその巻を手にしたのかわからないのですが・・)
ほとんど無名に近い人達の言葉や絵や写真・・・・その頃見ていなかったものが観えてきてきたのです。心臓の鼓動が速くなっているのに気がつきました。
さらに、細井富貴子さんという「銀花」編集長の書いた文章に強く胸を打たれたのです。
偽物ばかりの今の世を思うと、それらの文章の中心は名の知れぬモノづくり達の話で、その隣近所の命の手触りがする本物の言葉を読むことができます。

「麻痺の身を電気仕掛けにして欲しい」
「おれにしか見えない犬の笑い顔」
「しらないですむこと耳が拾い過ぎ」

その文章の中にあった、とある地方の障害者の竹内さんという人の川柳です。
お金があれば、今の科学では人工知能から身体にマイクロチップを埋め込んだりコンピュータ制御の電気仕掛けで麻痺の身を働かせることが出来るでしょう。
しかし、なにかこの句の情感や今は廃刊になった「銀花」を思うと、わたしには現代の科学が向かく処が少し違うように思えるのですが・・・。

1985年、始めて季刊「銀花」に出会って、自分の生の方向を大きく左右したことは確かです。
それまでほとんど見ていたのに見えなかったことが見えてきたのですから・・・。
その年、感動のあまり始めて投稿した言葉が「銀花」の投稿欄に掲載されました。・・・・その礼状ハガキがなんと編集長自ら、細井富貴子さんの自筆のものでした。(ささやかな自慢したい思いでの一つになってしまいましたが・・)
そして、今また・・・「銀花」から授かったような言葉が脳裏に立ち上がった。それは水墨で「銀彩」を描くことにあると。
もう一度が無い、描き直しのきかない人生と、手直しのできない水墨画。
これは妙に出来すぎた安い幸せであるが、やってみなくてはまだわからない・・・。

最近こんな広告コピーを読みました。「愛は人を美しくさせる」それは間違ってはいないかもしれません、だから愛を買い求めようとする人たちが沢山いて経済が働いています。しかしそれは化粧品やエステ、サプリメントなどなどでは決してありません。
きっとそれは人の心に愛を立ち上がらせるようなものでしょう。

それはどのようなものでしょうか・・・?



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