2017年1月14日土曜日

遥かかなたにあるであろう「美」を一番近くに引き寄せいるのは詩かもしれない。
詩はだれもが日常使っている言葉で世界を表しているけれど、なかなか理解しがたい。哲学の言葉と比べると誰でもが読める。が、それを読む、味わえる人は数多くいない。つまり、一番有用性のない存在が詩であると云ってもいいだろう。一般人には絵画のように気安く好き嫌いを感じるところまで行きつかないからかもしれない。頭の中で哲学が働かないと詩の言葉は読む人の感覚に触れることすらないからだ。
だが、しかしそんな言葉が突然、心に触ってくることもある。普通の人が詩人に近くなる時とはそのような場面である。これは、絵画の場合にも当てはまる。
「詩的な世界を体感すること」という言葉を考えてみるとわかりやすい。詩的な世界とはどのようなものだろうと・・。
例えば、(有用性の有る?)宇多田ヒカルや中島みゆきの音楽(歌詞)は多くの人々に感動を与えるが、詩人の詩集の言葉だけ(音楽なしの)を読む人はほとんど少数なのはなぜだろうと考えれば、若干だが詩の難解さも少し和らいでくるのではないかと思う。(かなり、恣意的かもしれないけれど美の本質はそのあたりに隠れているような気がする)
また、理解されやすい絵画があるとすれば、その多数に理解される絵画とはいかに?
フェルメールの絵画はどうだろう。二世紀も後になって世界に認められ、印象派好きの日本に至っては五十年くらい前には一部の美術研究家しか認めなかったのに、ここ十数年の間でブームにまでなってきたのは何故だろう・・・。(しかし、さらに絵画になど興味の無い一般大衆など、今の自分のアルバイトの同僚とかはほとんどが知らないという現実である。たとえばその絵画を観ても、写真のようで凄いねと云うことくらいかもしれない・・)
人はどのような時、深く詩的な感覚の心が立ち上がってくるのだろう・・・。
自分に分かるのは、ほとんど言葉では答えられない感覚だけなのが歯痒く、その自分の感覚の経験の中で倫理的なことを年をとって学びはじめているといったところだろう。これは晩学の趣味にのめり込んだ人のように思っているが、不思議と過去の記憶が以前より増して呼び起こされている実感がある。
(絵描きは黙って絵だけ描いていなさい!・・・・と誰かに怒られそうだが、わたしはどうやら言葉が好きなようだ。だが、残念なことに多くの言葉は無意味で騒音のごとくである)
自分は音楽が好きだが、やはり詩人の書く言葉と音楽家の作詞の言葉を比べると、全てとは思わないけれど詩人の書く言葉との間には隔たりがあり何か違ったものを最近感じるのである。
歌もいいが、音楽はやはり言葉の無い方が格段に自由である。

兎に角、詩をそう簡単に論ずること自体がおかしいけれど、わたしの深夜のひとり言の葉・・・・いつか詩でも描ければと思う。


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