2017年2月5日日曜日

ヤノマミ・・

太古の人類が精霊を信じたように、そして野生の部族がパンツをはきだした時のように、現代人は原子力を身に付けた・・・まるで守護神のように・・原子力発電所の名前は「文殊」などという菩薩の名であった。(それはまた道元禅師の幼少期の名でもあるが)・・・いくら大切な何かを失ってしまったように思えても過去へはもどれない。まったく理解しがたく、いや、わかるような気もするし、またどうしようもないことのようだけれど、こういったことは考えなくてはいけない大切なことのように「ヤノマミ」国分拓・著 を読んでいて身体が震えだした。
(以前、DVDで観たNHKのドキュメント映画で、その著書です)

全ての生き物の世界は、どう考えても殺して生きる節理の中にあると思う。
宇宙自体が生き物だとすれば・・いったい「進化論」とは、はなんなんだろう?
兎に角、考えれば考えるほどに、わからないことが確かにたくさんある・・・。

人類が進化していくとすれば、生物を何も殺さなくても生きていける世界を創るチカラを見出す能力を身につけた人間に進化していかなくてはと思ったりもすが・・そういうのがSFだろうか・・・どうも違うように思えてならない。
本来の進化の目的は、どちらかといえば、いがいに仏教の輪廻や空の思想の方に近いのではと・・。

水辺で一人のしゃがんだ裸の女性と、腰に赤い布を巻いた少女がこちらを見ている一枚の美しいヤノマミの写真をしばらく眺めていた。
確かに写真を見ている今ここに、なにものかが立ち現われているようだが、残念ながらその存在は見えない。
単なる願望を満たすための空想からの現実逃避ではない・・「何か」
それをそのまま感じたままに水墨で描き写せば、心に観照できるかもしれないとも思った。
何度か観た映像の「ヤノマミ」は、わたしの中で、結局は何も言わない。沈黙のままだ・・・。
ただ、その観た感覚は身体が感じる野生の恐ろしさと共に、わたしには無数の優しい言葉が認識を越えて聞こえてきた気がした。
薄々無意識に思考していたことかもしれない何かが「ヤノマミ」を知ったことで、さらにはっきりと浮かび上がってきた妙なる存在のカタチとは・・・。
別段、こじつけでもいいのだが、現在自分が水墨で描きたいモノを描くこと、それが美の現成であり、野生の欲望の制御であり、しいては他者(世界)の繋がりになればという祈りなのかもしれない。
何歳になろうが、何かを新たに「知るということ」と「問うということ」そして「信じる」ということは、生きているということの証明のように、「ヤノマミ」という存在から学んだ。







 

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