2017年2月16日木曜日

情緒と創造

なにかが、すでにそこで終わったと思ったら、諦めるのではなく、また始めの一歩から始めるということが必要なのだ。というようなことを学び勇気づけられました。(ただたんたんと、それを繰り返しつづけることしかないと・・)
日本の、いや世界の偉大な数学者の岡潔氏の言葉を本で読んでのことであります。
(数学のことは皆目解らないのですが・・)

例えばピカソの絵画とか抽象とか、そのような芸術は仏教でいう無明の美だと、つまり人間の濁った心をとりだして表現してみせた優れた芸術家だというのです・・・現代社会がそれを高く評価する。が本来の芸術の役目を思えば、もしかして現代芸術はいくところまできてしまった。・・・(芸術の表現が自由だということとを考えれば、どこにその自由が有るのか。なにものにもとらわれることの無い世界こそが自由なのか。そうではあるまい、ただのそういうことの自由意思であろう)
いままでそんなことを考えてもしなかったけれど、ピカソを世間で高く評価することに疑問を感じていた自分にも・・・そうだ、そうだ、そうなんです。と心が温かくなったというか、自分自身の中にある美術概念を信じられるようになったとでもいっていいかもしれません。(ピカソのキュビズムもセザンヌ描いた絵を拝借して描いたようだし、アフリカの原始美術のデザイン化でもあるという・・・まあ兎に角、そのすじの欲望がたくましかった人でしょう・・何冊かの画集を買って、その何たるかの魅力を知りたいと試みました。しかし、残念なことに自分の心の弧線には触れなかったというのが本心です。・・偉大なピカソの心棒者には申し訳ありません)
まあ、だいそれた芸術の現代神様を批判するようなことを語りましたが・・・。
自分がピカソの良さが解らない理解できない、ということなのですが。兎に角もうそろそろ世間とかの評価にとらわれない自らの感覚と意思で行動しなければと感じていますが・・・自身の情感に嘘つくことには疲れたということのようです。
この岡潔という方は、人類の進化を億年単位で考えていられるように思いました。
たかだか二千年で人間の進化など観えるはずはないだろうと、それなのに現代人は短い間に幾つもの戦争を起こし、原子爆弾まで造ってしまった。さらに現代の営利目的の情報社会や科学の進歩などは人間の情緒を無視したような行為だと。そのような変化に疑問をいだいていたようです。
自然科学に欠けているのは感情だと。数学にも最終的な本質は情緒ということが関係してくるという、難解だな~と思っていたけれど、この方の思考を読んでいるうちに、なぜかそれが少し解るような気になってきた昨今です。(情緒というのは、一般で云われている喜怒哀楽とは違います。まったくその外にある知覚・感情?のようです)


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