2017年4月13日木曜日

数奇は奇数

なんのことはない、画を描いている自分の手を見て指は五本で関節が三つであるという事実に気がついただけである。
だが、その手は道具を使い好きなものを手に入れるのに欠かせないこと、もちろん手が無くととも好きなものは手に入るだろうけれど、想像し、なにかしら表現したいということでの手に入るという、モノづくりの人間にとって手は重要な役目をしている。
つまり、いまいっている、その手に入れたいというのは実在のモノではなく存在自身とでもいっていい、そのものである。
自分が書物を読んで知った数奇な人は西行、良寛、道元・・・などなど何人かいるのだが、きっとどの人たちも数奇を好み奇数にしたがって生きた人物のように思われた。
数字の一に始まる、1というのは考えることが不可能な数だと優れた数学者が云っていた、考えられるのは2からであると・・・。
だから不可能な1を考えようとする人を数奇な人というのかなって、1+1は2ではなく3あるいは1だという思考ではないかと思った。
奇数は動で偶数は静・・生と死、安定と不安定、強いものと弱いもの・・・生命の始まりと進化などをイメージします。(まあ兎に角、恣意的ではありますが・・)

今まで、フェルメールの水墨模写を2点描いたけれど、やはりどうしても水墨にしたと考えていたのが「デルフトの眺望」である。
どのように水墨で描けるかとずっと思っていたもののなかなか良い構想が浮かんでこなかったが、最近になって、ふと頭に浮かんできた表現像があり、それに近い画像をパソコンで作り下図にし描いてみようという計画を思いついた。
それを描く紙は初めて注文した雲肌麻紙で試してみよう。そして墨は、先日ブログに書いた、お友達の女流日本画家に頂いた六角柱で出来た中国の高級油墨を使う事に決めた。自分が手に入れたいフェルメールの「デルフトの眺望」を描く事を想像するとワクワクしてくる。
(偶数は実存の数で、六角の墨を磨ると八角に成るがその一点の角を磨ると11角に成る・・・なんだかこじつけのようですが・・そんな哲学的感覚を楽しんでいるのでしょう)

ようやく[Jiu](慈雨・時雨)が描き上がった。そこでも試したその古墨は実に心地よかった。
もちろん姪子の(呉竹で墨職人をしている)墨は好いのだが・・その本当の優劣の差などは分からないが、数奇でまたお金を出しても買えない高質な墨が手元に有ることに感謝します。


一時より一日におよび、乃至一年より一生までのいとなみとすべし。仏法を精魂として弄すべきなり。
これを生生むなしくすごさざるとする。しかあるを、いなだあきらめざれば、ひとのために、とくべからずとおもうことなかれ。
あきらめんことをまたんは、無量劫にもかなうべからず。
・・・道元「正法眼蔵」(自証三昧より)

ああだこうだと考えているうちに、一時のイメージの立ち現われも消えてしまう。
描くことは至難だが・・今やらなくて、いつだれがやる。
そんな勇気ある励ましの言葉に聞えてきました。




「JIU」(慈雨・時雨)

水墨

由三蔵 画




 

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