2017年3月20日月曜日

練才画工

わたしのような者を練才画工といってみようか・・。

修練の中でしか立ち現われないような画。
そのように思えてくる昨今だ。
表現するとは一体何なんだろうといつも考えているが、表現された多くの絵は過去の巨匠絵画のコダマでしかなく自ら発した声を聴くには、まだまだわたしには修練が足りないようだ。
もしかして、修練そのものがリアリズムの表現でもあるような気さえするが・・。
昨年知り合った90歳の絵師が云っていた「水墨だけはわたしを裏切らない・・」と。今の自分にはその言葉の意味するところは知覚することができない。無常ということかとも思ったが、論理で判ってもその無常を実感できないうちはしょうがあるまい。

本年は、なぜか・・時あれば水墨を描き続けている。
それは、水の景色「光呑滴水」というモチーフを画にしたいプロセスだろうかとも思った。
昨年の夏に山梨の昇仙峡へ行った時に観照した、大きな岩肌を舐めるように流れるキラキラ光る水の景色であるが、描けるかどうか考えただけでもゾクゾクする。撮影した何枚かの写真を眺めていると、その落ちてくる水の触感やその時の風のノイズまでが立ち現われてくる。
しかし、その前にまだ修練ともいえる「慈雨」という水の景色が描けてからだが・・・。

まだまだだが・・・時が熟せばきっと描ける!

どこかだれかの「ファイト!」っていう励ましの妄想の声が聞こえてくる。


また彼岸の入りに、修練の一画「眼晴」を描き終えた。




「眼晴」 (部分)

水墨

由三蔵 画



 

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