2017年3月9日木曜日

眼晴

約一カ月入院し、肺炎になった、わたし老母の退院が決まった。が複雑な気持ちである・・
その母は入院前とは大きく変わってしまった。肺炎は治ったものの、言葉での会話が普通に出来た入院前だったのだが、現在若干の言葉が解るくらいで、ほとんどのことが解らないようにみえる(本当の母の思いなど判らないが、やはり脳のハタラキがかなり停止してきているのかなと思う)、譫妄なのか認知症なのかどうでもいいが、人間はそのようになってしまうのだと・・点滴が終わりエンゲ食で、もちろん自分で起き上がる事も出来ない状態での退院である。そして老人介護施設へ戻される訳だが・・・何が今一番いいのかあれこれ考えるがどうにも難しいし、現在自分に出来ることはわたしの情緒にしたがう以外にはないのだ。
病院は、これが若い人間なら退院はさせないだろうし、また、金持ちの老人ならもちろんであろうが、そんな思考もつまらなくどうでもいい。

言葉は無くしても、その視線は確かに生きている、わたしだけが分かる感覚だろう。

そう「時」とはそのようなものだ。

ほぼ一日おきくらいに面会に行っていたのだが母の脳が元の一月前に戻る様子は無いと思った。
一週間前くらいに昔の映画「楢山節考」というのを観た。
70歳に成った老人を生きたまま山へ捨てに行くという、江戸時代の貧しい地方の姥捨て山のお話である。
ず~と前にも観たが、その時とはかなり異なった感覚が立ち現われてきて・・まいった!
どのように自分の情感を整理しなければならないか・・・・・・。
この情緒をどうにかしないと前に進めないと2~3日考えていた。
そうして、兎に角、また「正法眼蔵」に救いを願った。
なぜか、いつも何か指し示してくれる・・。

正法眼蔵を読み、自分の現在の欲しい言葉を探した・・・・。

「あらゆる関係性が連続する時とは、今というような絶対の命のことだろう・・」と自分が自分に語りかけ、大自然と母に手を合わせた・・・・・。

そして、母が好きな花「コスモス」を水墨で描きたくなった。(いつかいつか母に描いてあげようと資料を集めていたが、なかなか花を描く気に成れなかったのだ・・もう今の生きた眼で絵を観ても分かってもらえないだろうが・・いずれ観てくれるだろうことを信じて)



「眼晴」(未完)

 (原寸大、部分)

原画サイズ 3号

水墨・麻紙


由三蔵 画






 

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