2020年9月30日水曜日

美術評論家?

 美術の好きな方の中に、世の美術評論家の文章及び発言をそのまま鵜呑みにして語る人がいます。はあ、はあ、もっともなことを言ってるな~って聞いていると思うのですが、当の本人がその美術作品を実際どのように受けてめているのかは、ほとんど分からないことが多いですね。わたしが読んでいて最も面白くない美術評論は沢山の知らないアーチストや海外の著名な知らない批評家の名前を沢山出してきて、何々派だの主義などポスト何とかだのと、自分の言葉でしゃべっていない方々の批評です。わたしが、ブログで書いている文章などもそうですが、わたしなどは文章家ではないので許されるでしょう(笑)でも、水墨に関しては自分の言葉で話してるつもりでいます。

これからの時代はアートファンの時代になってくるような気配がしていますが、どうでしょうか?



この写真は、以前に水墨で模写したフェルメールの編み物をする女の図版です。1970年に出版された画集(本棚を整理していたら出てきた)からですが、モノクロ写真でした。以前模写した図版(2010年?)との差異があることに気づき、もういちど水墨で描こうと思っていますが、いつになるか、、、、。



2020年9月26日土曜日

三人展無事終了

 六日間があっという間に過ぎていきました。約300人ほどのご来場者がありました、初めて写真のようなリアルな水墨を見るという方が多く、墨水画の解説に喉が渇くほど話しました。普段は無口なのですがね、一から説明するのは大変でした(笑)兎に角、ありがとうございました。

もう一つの収穫は沼津市で運営している小さな美術館「モン・ミュゼ」2Fにて個展をさせていただけることになりました。初日にそこの館長さんがいらして、その日のうちに決まった次第です。まだ10か月ほど先なので新しいモチーフの墨水画の制作ができそうです。

水仙
墨水画

以前モデルをしてくれた女性が観に来てくれて
この作品が一番好きだといっていました。





2020年9月14日月曜日

リアリティ

 明後日、作品の搬入、約20点をセレクトし準備が整いました。

いよいよ初めての本格ギャラリーでの三人展が始まります。

最近考えているのは真の「リアリティ」です。今まで水墨でリアリズム(写実絵画)を模索してきましたが、そこに足りない何かが何時もあります。物質と精神の問題で、何故見えないものが見える人がいるのか?例えば、幽霊とか、幽体離脱とか、スピリチュアルな世界です。リアルといっても様々な解釈があると思うのですが、現実化された事象内容といいますか、今まで自分が非現実だと考えていた事物が実体あるものとして考えられるようになってきた、つまり「リアリティ」を帯びてきたというとことです。
美しいと感覚できること自体が「なぜなのか?なぜ人は感動したりするのか?・・・」非現実なのでした。が、今まで本を読んだり映画を観たり、過去の経験などを含め探求してきて現在に至り、科学的現実としてそれ(リアリティ)が立ち現れてきたのです。
わたしなどは言葉で説明できませんが、シュレーディンガーの「精神と物質」、ラズロの「生ける宇宙」を読んでいただけるといいのですが、でも読む方によって理解の仕方が違うので何とも言えませんが、わたしににとって新たな一歩なのでした。

兎に角、ギャラリー「ほさか」の三人展をぜひ見に来てください。


2020年8月20日木曜日

美の値段

 「・・・現在日本には、絵を描き、展覧会や個展などで発表している人は、およそ十万人はいるだろう、と私は見ている。『美術年鑑』に名前の載っている画家はそのうち三万人、マーケットで多少とも値段がつき画商が扱っている画家はさらにその中の三百人くらい、そして本当に愛好家の間で人気があり流通しているのは五十人、と見てくると、十万人のうち絵を描く本業だけで食べていけるのはせいぜい100人いるかいないか、だろうと思われる・・・」この文章は1999年に画家、今は亡き池田満寿夫氏の著書「美の値段」から抜粋したものだが、約20年前ということで社会的状況はかなり変化しているものの、発表の仕方など数字的なものは別にしてまんざら今と大して変わらないのではなかろうかと思います。

趣味で単に個人的な楽しみで絵を描いているというだけなら、美の価値など特に考える事もないでしょうが、作品を発表したり、展覧会やコンクールに応募したりする人には考えなければならない問題でしょう。美というテーマはプラトン・ソクラテスの時代から現代まで問われてきたものゆえ、そう簡単に真の答えの出せるようなモノではないにしても、というかだから探求しなければならない事のようです。

兎に角「美術品は社会的価値である」ということは確かであると思います。


2020年8月3日月曜日

ベルクソン

この方の哲学は何といういいますか、かなり難解で、読むことがようやくできるようになったかと。おもな著作の翻訳本は岩波文庫なのですが、兎に角字が小さいので、、、現在「道徳と宗教の二源泉」を読み始めました。
五年前くらいに「エラン・ビタール」という概念に触れたことがベルクソンの始まりでしたが、やはり、解ったような気になっていただけかもしれません。

どうやら、わたしには道元、カント、ベルクソン、、、、が死ぬまで読む哲学の著作にしぼられそうです。もちろん日本の批評家(哲学者)の柄谷行人や福田恒存、大森壮蔵、他何人かはくわえなければならないでしょう。自分に分からない事を理解するための手助けになってくれる本があるということはありがたいことで、また、解らない事(不思議)とは何かを気付かせてくれるというパラドックスでもあり、それが新しきものへ導いてくるような気がします。

水墨で描くということは、その妙を味わうことでもあるように思っています。

優れた人、あるいは作品というのは分類に属さない。ということを実感します。

2020年7月28日火曜日

美術を哲学する

どのように言葉にすればいいのかわからなかったので、このようなタイトルにしました。
元々、日本語になかった哲学という言葉ですが、最近では芸術すらアートという日本語にしていますから、そう深く考える必要もないと、、、、でも、自分の感覚で腑に落ちない何かがあるからでしょう。
近代絵画あたりから現代美術まで、美しくないモノ(共通感覚による)まで美術のカテゴリーの中に入ってきましたが、皆様はそういうことをどのように思っているのだろう?
そのような疑問がなかなかぬぐい切れません。
美の様々な定義みたいなものも歴史の書物の中でも言われていますが、それはあくまでも概念であり、自分の経験として現れなければ何の価値もないのと同じです。

まあ、そんなわけで解らないまま、つまり美術を哲学しながら墨水画を描いているわけですが、、、九月の十七日から一週間、三人展を開催します。

案内状のデザインを手がけましたのでアップします。




2020  9/17ー22
場所・ギャラリーほさか(沼津)



2020年7月26日日曜日

生活の柄

この言葉は山之口獏という詩人の中にある詩のタイトルです。
今はもう亡き高田渡というフォークシンガーも歌っていました。
現在の自分はこの言葉の意味をもう一度考えているのです、、、、。

わたしの生活の柄あるとすればどのような柄なのか?
生活の柄とは、生き方であるとすれば、わたしの柄はポロックの絵のようなペンキ屋さんの汚れた作業着のようなものではないかと思うのです。これはかなり自分を美化しているナルシストの考え方で、そこに自分を陥れるフェミニストでもあり、さらにそれは主観的エゴイストであるのでしょう。
そんな自分が墨水画を描いているということだけが、生活の柄を変化させる、あるいは他者を受けいるることの兆しが、生活の柄を塗り替える、または重ね描きすることで新しいい柄が立ち現れてくるような気がしています。

両親をはじめ、友人、知人など何人かの人がこの世を去っていきました。
その人たちの生活の柄を感じます。

優れて美しいものには、どういうわけか悲しみ憂いのようなものが付いてきます。

お盆。ですね!!供養とはそうゆうものではないでしょうか。。。。