2022年1月1日土曜日

2022

 2022

新年あけましておめでとうございます!

このブログがかなりおろそかになっていました、なぜか。

Facebookで遊んでた、何か集中できなかった、自分自身がどこかにいってしまってた。

こんな、ブログを観る人などたいしていないだろう、、、。とか

兎に角、昨年は大きな変化が自己の中で、絵画感においてですが。

孫が生まれ、初めて身内の似顔絵を描いたことにあります。

思考の中では様々な考察をしていたこともあるでしょうが、実際の生活での経験に勝るものはありません。

nattu(孫)

墨水画

由三蔵


2021年6月27日日曜日

墨水画展

 


恣意的絵画小論

 

絵画とは何かという問にいずれは自分なりの決着をつけたい。

遠い過去の記憶の中に一枚の美しい絵があります。それは五十年前頃に友人の絵画サークルの展示会で見た小さな六号位の油絵で、キャンバスに塗り残しの目立った花瓶に生けた花を描いたものでした。この記憶が、いつ何がきっかけで思い起こされたのか・・・想像力をかきたてれば、展示会の開催された場所がパン屋さんの二階であったことを考えてみると。ある朝、トーストを焼く匂い、あるいは何処かの街のベーカリーの前とか、無意志的記憶の立ち現れは不思議です。「このような感覚によって偶然もたらされる記憶こそ真実を再現するものだ・・」と、かの「失われた時を求めての」の著者、マルセル・プルーストは言っています。

この絵の記憶は五十歳を過ぎたころから頻繁に想起されるようになりました。そして同じ時期にセザンヌの良さが分かり始め、また水墨をはじめたのもそのころだったのは偶然でしょうか・・・。

手は盲目的であるがゆえに触れることができ、形をなさないものを作り、道具の物質性と関わりあうことができます。素描(デッサン)にはこの盲目性が入り込む、その痕跡の延長に墨水画があるような気がします。

あるモチーフによって身体が知覚したイメージを、知覚される側へ投げ返す、つまり身体の外側へ置き直す・・・・。描くという行為を分析するとそういうことかと思惟します。

わたしの絵の前に立って観る人は、たとえそこに描かれたものが「私」を通じて知覚された絵であっても、観る人の視点は、その人自身の「私」感覚でしかない、というか観るとは様々な意識の立ち現れからなり、何かを指し示す絵は図像だといえます。そして、絵画における表現というのは直示的根底をなす図像ではなく、把握不可能な「何ものか」が実在感をもって現れてくる未規定性のハタラキにあると考えています。


2021年3月18日木曜日

2021水墨模写

 久しぶりのブログ更新です。

六月に予定している個展へ向け昨年の八月の三人展から七か月ほど小さな作品ばかりですが十点ほどの新作が描けました。

現在、F10号のモチーフを描くための試作を描いています。現代美術、コンテンポラリーな作品になるかと思いますが、、、、どうなりますかやってみないとわかりません。できれば個展に間に合わせたいと思っています。

今回は、17世紀のオランダの画家、ヘラルド・テル・ボルフの「手紙を書く女」を水墨で模写しました。フェルメールより少し前の画家ですが、表現はよく似ていますがボルフの方が技術的には優れているように感じました。



水墨模写
麻紙 F6号

由三蔵

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2021年1月17日日曜日

時間と空間とわたし

 年明けから半月が過ぎました、さらに治まらない正体のわからないコロナ渦の世界です。これほど世界の人達多数が顔半分を隠し生活している光景は歴史に残ることだと思います。歴史といえば人類が生存しているという前提の言葉ですが、、、人間の種が遠い未来に生き残っていたとすれば、なにを馬鹿なことをしていたのかと。人間の本能丸出しの出来事と未来の人類は思うのかもしれません。

もしも、人間の本能というのが想像力であるとすれば、、、ヒュームからカントの哲学がその問いかけを指し示しているようにも思われます。



墨水画
麻紙 6号

ミロのビーナスと時間の習作

由三蔵

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2021年1月5日火曜日

新年あけましておめでとうございます

 新年早々、Facebookに新年のご挨拶と5年前の墨水画を掲載したところ、今まで多くても60くらいの「いいね」をいただいていたのですが、それがなんと150を超えまたコメントも沢山入ってきました。兎に角、驚きです。

まあ、バーチャルの世界で喜んでいるわけですが、悪い気分ではありませんね。

本年もよろしくお願いします。


墨水画(色紙)
フェルメール模写
2017

この習作はある方に渡っていったもので
手元にはありませんが思い出の1枚です。

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2020年12月26日土曜日

コロナ渦の一年~

良いこと良く無ない事、兎に角色々と大変な一年でした。 これから時代はどのように変化していくのか、、、、、民主主義の上で成り立っている自由。それが本当の自由でないことは誰もが気付いていることだろう。だからといって戦争下にあった不自由と比べればどれほど自由かしれない。自分がしたくもないことをやらされる、大半の労働はそのようで、生活のためと。労働しなくても生活できる方々も沢山いる。富裕層、あるいは労働出来ない一部の人達、年金族、などなど、、、、。

今度のコロナ渦で今まで見えていなかったことが数多く表に現れてきたように感じる。それは先の未来に繋がっていくであろう「何か」をどのように個人個人が考察するか、そしてどのような形態の社会になっていくのかを予想、想像せざるを得ないけれども、まず自分の足元をしっかり見つめ直そうと思います。

2020年12月13日日曜日

描ける!

今、描ける!ということ、この幸せを実感します。 

十年ちょっと、水墨をやりだして、ようやく描けるようになったかなって思ってます。
今は、ミロのビーナスに挑んでますが、、、、その古代の美術館に収まっているビーナスと時間との関係性から何かを考察しながらの作業です。

今回、投稿するのはその前に描いていた「みみずく」の墨水画です。花鳥園のミミズク、何か憂鬱そうでした、、、、。




墨水画

麻紙

由三蔵

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2020年12月3日木曜日

疑問

 解からない事、不思議な事、感覚として経験したいこと、、、、。そういったことに対して自分が今、何ができるのだろうか?



おおよそ一昔前のコラージュ作品の中から気に入ったのを写真に撮り
パソコンんでリメイクし水墨のモチーフとしてつくってみた。
今の自分が欲しものが少し見えてきた。

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2020年11月24日火曜日

Prolegomena

 ひさしぶりの更新になります。
プロレゴメナ(序論)カントの哲学書です。最近になって読み始めました。
先日のブログで墨水画第三期などといってましたが、通俗性を拒否することはなかなか困難なことであることを実感しています。もういちど「透けて見えるようにやる・・」というプルーストの言葉に立ち返ってモチーフを考察しなければと感じてます。で、兎に角、描かずにはいられずれ試作をやっています。

Ma-U2
墨水画 麻紙

御河童
墨水画 新麻紙


この二点は約20㎝くらいの小さな作品です。Ma-U2は昨年20号に描いたモデルと同じモチーフで新たに描きました。現在、第三期の序論として「小さなダンサー」の習作を描いています。もうそろそろ終了というところです。

プロレゴメナ

墨水画 6号

麻紙

由三蔵

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2020年10月21日水曜日

墨水画・第三期はじまる

完成予想図を描くというのと絵画を描くというのとは水と油のほどにあるだろう。 しかし、そこにある意識とはどちらにしろ「ある/予想図」だと思った。そして大切なのはモノ、ではなくハタラキにあると。物語ではなく、その中にある言葉(感覚)のハタラキ(身体と世界)・・・リアリティーそれはやはり現象学的問題のようだ。



モチーフ
ある現象学的予想図

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2020年10月16日金曜日

アート・ファン

 2016年に水墨で描いたフェルメールの「レースを編む女」の模写をある方が気に入られ先日納品しました。昨日、そのお宅から連絡があり額に入れたので観に来てほしいと、、、。安い中古の色紙額に入れてお渡ししたのですが、見に行ってきました。素敵な額装で、なんだか絵が喜んでいるみたいにみえました。

その方の邸宅は広いお庭に茶室まであり優れた和風建築で、絵画のほかに陶芸、屏風、などなどまるで小さな美術館のようなお宅です。そして、わたしの作品を五点ほどお貸しし展示させていただきました。



フェルメールの「レースを編む女」模写

水墨

原画とほぼ同寸で描いてあります。

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2020年10月12日月曜日

モーリス・メルロ=ポンティ

 1908年生まれ。フランスの哲学者。

わたしはセザンヌに興味があり何冊かの書物を読んでいる時々に出てきた哲学者の名前であって著書自体を読むのは初めてでした。その「メルロ=ポンティ コレクション」を読んでいるのですが、その項目のなかでー絡み合いーキアムス(見えるものと見えないもの)から、というのがプルースト批判だったのです。プルーストの芸術の方法に「透けて見えるようにやる・・」という言葉があるのですが、その言葉を壁に貼ってほぼ毎日のように思索してきました。その事実を哲学的に語っている・・・何か今までにない感覚に鳥肌が立つような思いで何度か読んでいるのですが、経験が伴わないためか、まだまだ理解に苦しんでいます。しかし、おそらく近いうちにその兆しが、墨水画を描くことで見えてくるのではないかと信じています。身体(からだ)で観ること、その対象から見られているということ、、、とはどういうことか?なのです。


2020年10月7日水曜日

墨水画・第三期

 新しいチーフに取り組み始めました。水墨で画を描くようになってまだ十年ちょっとですが技術的なことも含め日々新たな動機が生まれてきます。大きく分けると現在探求してるのは第三期というところでしょうか。新しさといってもファッションのようなものではなく、むしろ今あるもの、知り尽くしたものと思っているようなものの中に、、、偶然や奇妙や失われた時間とがあって、そこから立ち現れてくる「新しさ」のようです。さて今回のブログではその第一期に当たる作品の一部をお見せする次第です。








このころは正直、墨とか和紙とかが見えてこない
ただただ、水墨でデッサンしていたような気もしますが
それなりに表現としては面白いと、今見ると感じています。
このころ描いた風景画はほとんど手元にはなく
値がが安かったせいか買われていきました。
ありがたいことで、それによってか、あってか、
水墨を描く大きな励みになりました。

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2020年9月30日水曜日

美術評論家?

 美術の好きな方の中に、世の美術評論家の文章及び発言をそのまま鵜呑みにして語る人がいます。はあ、はあ、もっともなことを言ってるな~って聞いていると思うのですが、当の本人がその美術作品を実際どのように受けてめているのかは、ほとんど分からないことが多いですね。わたしが読んでいて最も面白くない美術評論は沢山の知らないアーチストや海外の著名な知らない批評家の名前を沢山出してきて、何々派だの主義などポスト何とかだのと、自分の言葉でしゃべっていない方々の批評です。わたしが、ブログで書いている文章などもそうですが、わたしなどは文章家ではないので許されるでしょう(笑)でも、水墨に関しては自分の言葉で話してるつもりでいます。

これからの時代はアートファンの時代になってくるような気配がしていますが、どうでしょうか?



この写真は、以前に水墨で模写したフェルメールの編み物をする女の図版です。1970年に出版された画集(本棚を整理していたら出てきた)からですが、モノクロ写真でした。以前模写した図版(2010年?)との差異があることに気づき、もういちど水墨で描こうと思っていますが、いつになるか、、、、。



2020年9月26日土曜日

三人展無事終了

 六日間があっという間に過ぎていきました。約300人ほどのご来場者がありました、初めて写真のようなリアルな水墨を見るという方が多く、墨水画の解説に喉が渇くほど話しました。普段は無口なのですがね、一から説明するのは大変でした(笑)兎に角、ありがとうございました。

もう一つの収穫は沼津市で運営している小さな美術館「モン・ミュゼ」2Fにて個展をさせていただけることになりました。初日にそこの館長さんがいらして、その日のうちに決まった次第です。まだ10か月ほど先なので新しいモチーフの墨水画の制作ができそうです。

水仙
墨水画

以前モデルをしてくれた女性が観に来てくれて
この作品が一番好きだといっていました。

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2020年9月14日月曜日

リアリティ

 明後日、作品の搬入、約20点をセレクトし準備が整いました。

いよいよ初めての本格ギャラリーでの三人展が始まります。

最近考えているのは真の「リアリティ」です。今まで水墨でリアリズム(写実絵画)を模索してきましたが、そこに足りない何かが何時もあります。物質と精神の問題で、何故見えないものが見える人がいるのか?例えば、幽霊とか、幽体離脱とか、スピリチュアルな世界です。リアルといっても様々な解釈があると思うのですが、現実化された事象内容といいますか、今まで自分が非現実だと考えていた事物が実体あるものとして考えられるようになってきた、つまり「リアリティ」を帯びてきたというとことです。
美しいと感覚できること自体が「なぜなのか?なぜ人は感動したりするのか?・・・」非現実なのでした。が、今まで本を読んだり映画を観たり、過去の経験などを含め探求してきて現在に至り、科学的現実としてそれ(リアリティ)が立ち現れてきたのです。
わたしなどは言葉で説明できませんが、シュレーディンガーの「精神と物質」、ラズロの「生ける宇宙」を読んでいただけるといいのですが、でも読む方によって理解の仕方が違うので何とも言えませんが、わたしににとって新たな一歩なのでした。

兎に角、ギャラリー「ほさか」の三人展をぜひ見に来てください。


2020年8月20日木曜日

美の値段

 「・・・現在日本には、絵を描き、展覧会や個展などで発表している人は、およそ十万人はいるだろう、と私は見ている。『美術年鑑』に名前の載っている画家はそのうち三万人、マーケットで多少とも値段がつき画商が扱っている画家はさらにその中の三百人くらい、そして本当に愛好家の間で人気があり流通しているのは五十人、と見てくると、十万人のうち絵を描く本業だけで食べていけるのはせいぜい100人いるかいないか、だろうと思われる・・・」この文章は1999年に画家、今は亡き池田満寿夫氏の著書「美の値段」から抜粋したものだが、約20年前ということで社会的状況はかなり変化しているものの、発表の仕方など数字的なものは別にしてまんざら今と大して変わらないのではなかろうかと思います。

趣味で単に個人的な楽しみで絵を描いているというだけなら、美の価値など特に考える事もないでしょうが、作品を発表したり、展覧会やコンクールに応募したりする人には考えなければならない問題でしょう。美というテーマはプラトン・ソクラテスの時代から現代まで問われてきたものゆえ、そう簡単に真の答えの出せるようなモノではないにしても、というかだから探求しなければならない事のようです。

兎に角「美術品は社会的価値である」ということは確かであると思います。


2020年8月3日月曜日

ベルクソン

この方の哲学は何といういいますか、かなり難解で、読むことがようやくできるようになったかと。おもな著作の翻訳本は岩波文庫なのですが、兎に角字が小さいので、、、現在「道徳と宗教の二源泉」を読み始めました。
五年前くらいに「エラン・ビタール」という概念に触れたことがベルクソンの始まりでしたが、やはり、解ったような気になっていただけかもしれません。

どうやら、わたしには道元、カント、ベルクソン、、、、が死ぬまで読む哲学の著作にしぼられそうです。もちろん日本の批評家(哲学者)の柄谷行人や福田恒存、大森壮蔵、他何人かはくわえなければならないでしょう。自分に分からない事を理解するための手助けになってくれる本があるということはありがたいことで、また、解らない事(不思議)とは何かを気付かせてくれるというパラドックスでもあり、それが新しきものへ導いてくるような気がします。

水墨で描くということは、その妙を味わうことでもあるように思っています。

優れた人、あるいは作品というのは分類に属さない。ということを実感します。

2020年7月28日火曜日

美術を哲学する

どのように言葉にすればいいのかわからなかったので、このようなタイトルにしました。
元々、日本語になかった哲学という言葉ですが、最近では芸術すらアートという日本語にしていますから、そう深く考える必要もないと、、、、でも、自分の感覚で腑に落ちない何かがあるからでしょう。
近代絵画あたりから現代美術まで、美しくないモノ(共通感覚による)まで美術のカテゴリーの中に入ってきましたが、皆様はそういうことをどのように思っているのだろう?
そのような疑問がなかなかぬぐい切れません。
美の様々な定義みたいなものも歴史の書物の中でも言われていますが、それはあくまでも概念であり、自分の経験として現れなければ何の価値もないのと同じです。

まあ、そんなわけで解らないまま、つまり美術を哲学しながら墨水画を描いているわけですが、、、九月の十七日から一週間、三人展を開催します。

案内状のデザインを手がけましたのでアップします。




2020  9/17ー22
場所・ギャラリーほさか(沼津)

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2020年7月26日日曜日

生活の柄

この言葉は山之口獏という詩人の中にある詩のタイトルです。
今はもう亡き高田渡というフォークシンガーも歌っていました。
現在の自分はこの言葉の意味をもう一度考えているのです、、、、。

わたしの生活の柄あるとすればどのような柄なのか?
生活の柄とは、生き方であるとすれば、わたしの柄はポロックの絵のようなペンキ屋さんの汚れた作業着のようなものではないかと思うのです。これはかなり自分を美化しているナルシストの考え方で、そこに自分を陥れるフェミニストでもあり、さらにそれは主観的エゴイストであるのでしょう。
そんな自分が墨水画を描いているということだけが、生活の柄を変化させる、あるいは他者を受けいるることの兆しが、生活の柄を塗り替える、または重ね描きすることで新しいい柄が立ち現れてくるような気がしています。

両親をはじめ、友人、知人など何人かの人がこの世を去っていきました。
その人たちの生活の柄を感じます。

優れて美しいものには、どういうわけか悲しみ憂いのようなものが付いてきます。

お盆。ですね!!供養とはそうゆうものではないでしょうか。。。。