2020年3月19日木曜日

写実墨水画

よく絵に心が現れるなどといいますが、その心とは全く実体のない、その絵を観る人が知覚経験した妄想のようなものではなかろうかと思うのです。(それでもいいのですが)
しかし心のこもった絵がどのようなものなのか自分には理解し難い問題なのです。
わたしの墨水画はそのようなわけもわからない心(エゴころ)とかをできるだけ剥ぎ取っていったところからの「立ち現れ」を墨水画の中に見ていただきたいと願っています。

兎に角、わたしには技術(テクニック)が頼りなのです。
三十号、二十号の作品を描いてから(しばらく腱鞘炎になりシップしてましたが)墨水画の技術が進歩したように感じます。まずは、描くスピードが速くなったこと、墨色の黒の限界が読めてきたことなどがいえます。
下記の色紙に描いた墨水画ですが、以前ならゆうに三週間はかかっただろうが十日間ほどで描き終わりました。


墨水画

墨・水・色紙

由三蔵





2020年3月11日水曜日

ことば

言葉というものが人の体を傷つけたり癒したりするとすれば。
今日、コロナ感染で死亡した人が日本で十二人になったというニュースを見たのですが。その数字の表現をどのように受け止めるかを自分に問いかけてみると、わたしはそのニュース、情報の曖昧さに何とも言えないはがゆさを感じました。
ここ数年の間に大きな歴史的惨事がいくつも起こっています。
今現在その一つ惨事の真っただ中で生きています、、、、、、。

惨事そのものはもちろんですが、言葉、映像、情報の恐ろしさを経験すると同時に、自分自身それなりにしっかり、過去、現在、未来の中の今を見なければと感じました。

2020年3月9日月曜日

# Good Art

すべての人々の中にアートがある。(ベネチュア・ビエンナーレの概念のような?)
そういうアートを、外(世界)に向けることを、するかどうか?を現代のアート・イベント(日常の)などがしていることのように思います。で、もう一面のアートはまったく個人的な趣味のようなもので、好きで好きでたまらなく何かを創っている、また描い(書い)ているが、外(世界)は気になっていても悶々としているが、別段それだけでいいのだ、というのもあるでしょう。すべての人々にアートがある。というならば、それすらほんの世界の一部の出来事でしかないでしょう。
そんな事を考えていたら、アートという言葉が何を指しているのか、ほとんど分からなくなってきます。アーチストやら芸術家などなど、近年ではスポーツまでアートになってきました。まさか政治まではいかないとは思いますが、経済に組み込まれていることは確かのような気がします。そして、その根底に人類の起源があるとしたらなら、それは宗教、哲学、科学につながっているということになります。

身近にいる、アーチストと称する人たちをもう一度観察してみて、わたしの中のアートを見つけてみてはと。はたして見出すことができるかどうか、、、、、、?
むかし、むかし、デザインという外来言葉が流行りだし(今は当たり前)ましたが、わたしにはそれと変わりないようなアートという言葉でしかないように思います。

ごきげんいかが?という英語はありますが、ごきげんななめ?という英語は何でしょう、、、、、、。
どちらも、応えは Good!ですかね。


2020年3月6日金曜日

無「意識」

医学上の意識があるないということではなく、よく言う意識して何かするということの意識のことですが、例えば何かしようと思い行動(行為)するのと何も考えず行動(行為)してしまう。その両方に意識というのは実は働いていないのではないか。自分が意識しているというのは錯覚であって、その行動はおのずと行為が立ち現れたといことの中に意味があるのであって、意識していようといまいと、何かをしようとしていたのか、いなかったのかは「何かをした」という過去の表れがあるだけで、もともと「意識」というのは無いのではと。それを自己の意識と思うのは過剰な近代科学の影響によるものではないかと。それは他者の行動を見て思考するときに、ほとんど他者の意識などというものは、言葉以外に理解できない(正確には言葉だけでも理解できない)ということからもいえるのではないかと思うのです。
最近、自分は大変重要なことに今頃気が付いたのですが、言葉では到底あらわすことのできないもので、今まで経験してきた思考の仕方を変えなければならないが、そう簡単に長年生きてきて体得した感覚や思考、つまり多くは物理的に目に見えない事物のことを何とか納得できるようにしたいと、真剣に学ばなければと、、、、、、。

偶然幸いなのは、水墨を描いていることが唯一の頼みになりそうだということです。

2020年2月28日金曜日

数十秒間の美

今日、アトリエから車で帰宅する途中に信号機で止まっていると二人の小学生が横断歩道を渡ってきた一人は駆け足で渡り切ってしまったが、もう一人の女の子はずっと私の顔を見ながら横断歩道を歩いている、その顔が妙に気になり私もその顔を見ている、渡り切ってから、車の横まで来ると立ち止まって少し微笑んだかと思うと直立姿勢で両手を膝のあたりに持ってきて深々とお辞儀をした。
そしてこちらを少し振り向きながら歩き去った。
それから、私はその数十秒間の映像が脳裏から離れず、できれば鮮明な記憶として残したかった。
家に帰ってネットで「大段歩道を渡る小学生」と検索したらいくつかの画像があった。それらを元に記憶に重ね描きするようにしてイメージを定着できたような気がしている。
いつか画で生かしたいと思いました。

兎に角、小学生だったのだけれど、なにか日本の女性の美しさの原型を見たような、そんなふうに感嘆してしまったというお話です。つたない文ではではとてもこの知覚したものを伝えられませんが、この経験をブログに記録したかったのです。

2020年2月13日木曜日

導調

美がどのようなものであるか、言葉にすることはむずかしい。

けれど、いままで幾度もわたしの目の前に現れていることはたしかで、それは内心の苦しみを和らげ、信じることの何かへ導いてきた調べである。
そこから、いつもまた新たな探求が始まる。

そのモチーフ(導調)が立ち現れてきたら、できる限り精神を停止させる。
休むことのできない働き続ける身体は、なるべきように生る。


写実的墨水画を描くという方法論はそのようなものですが、現在活躍している若い驚異的リアリズム絵画の画家たちに同調できるとろもあるけれど(雑誌や画集を読んでの限りですが)描くという身体的な行為を語る人のないこと、時間をかけて調査、取材、絵画の歴史からとか、あるいは光学を語るのもいいけれど、日常のあたりまえの感覚を哲学することも重要ではないかと。
ここ数か月、描き続けたせいか、親指の付け根に痛みがるけれど、その痛みは誰にもわからない、、、、。という当たり前のことですかね。



墨水画  20号

 「まゆ」


顔をズームアップしました。
微妙な表情を表現することが難しかった、、。






2020年2月12日水曜日

初公募展、落選

初めて公募展に出品しました。
案の定、落選という結果になりました。でも、本当はもしかして審査員の中に私の描いているような水墨画に問題意識をもってくれる方がいればと若干の期待を抱いていたのですが、サイズの小さいことは大いに関係していたようですね(たまたま、驚いたことに私の先輩がこの運営事務局長だったのですね。ああ、知ってたら50号描いたのに、、、でもサイズだけの問題でもないでしょう)50号から20号とい中で私のは20号。(正直なところその距離では水墨の良さは分らないでしょう)公開審査ということで会場で見ていたのですが、約五メートルほど離れたところから四点づつ300点ほどの作品を見て一次審査をする、審査員は四人、審査委員長は体の具合が悪く欠席。(まあ、落選者の愚痴として書いています)
どうして、この年で公募展などにだしたのかは、一言ではいえない理由がありますが、ひとつの夢と思っていただければ良いかと、今思えば宝くじみたいなものでしょうかね(笑)
ただ、落選したからというわけではないのですが審査員4人の方の選ぶ作品を見ていて美的判断力の無さに幻滅しました、、、、、。あなた方、カントやベルクソンなど読みましたか?美学を探求したことありますか?と選考しているのを見ていて、そんな気がしました。
、、、、、はい愚痴はこの辺でやめときます。


出品した水墨の作品です。


墨水画 20号

麻紙



「まゆ」